僕が引っかかったのは、勉強することでも、計画を立てることでも、掃除をすることでもない。一番気になったのは、そのルールを誰が決めたのかだった。
不登校の子どもたちと関わっていると、大人の顔色を見て動けてしまう子がいる。だからこそ、「できた」という結果だけを見て安心するのは危ない。その行動が本人のものになっているかどうかを見ないと、支援の方向を間違えることがある。
ホワイトボードのルールを見て気になったこと
その日、子どもたちが過ごす場所のホワイトボードに、いくつかのルールが書かれていた。
計画を立てること。静かに学習すること。勉強の時間をつくること。掃除をすることなどなど。
一つひとつの内容だけを見れば、悪いことが書かれているわけではない。静かに過ごしたい子への配慮も必要だし、掃除も大事だし、振り返りにも意味はある。
でも、その場で僕は「これ、子どもたちと決めたんかな」と思った。というより、正直に言えば、子どもたちが決めたものではないだろうと感じていた。
そこで子どもたちに聞いてみた。返ってきたのは、「先生が決めた」という反応だった。
ルールの中身より、決め方が気になった
もし子どもたちが話し合って、納得した上で同じルールになったのなら、僕の受け止め方は変わっていたと思う。
子どもたちが「ここでは勉強の時間を少しつくろう」「掃除もみんなでしよう」と決めたのなら、それはその子たちのルールになる。大人が誘導したのではなく、子どもたち自身が必要だと感じて選んだものなら、僕も納得できる。
でも、子どもたちが納得しないまま、大人が決めたことをただやらされているだけなら、それは成功体験にはなりにくい。形だけ整っても、本人の中に「自分で決めた」という感覚が残らないからだ。
僕が見た範囲では、子どもたちは僕に対して警戒していたわけではない。僕がそういうことを強制しないと知っているから、いつも通りに過ごしていた。だから、「その場で子どもたちが苦しそうだった」とは言えない。
ただ、違和感は残った。子どもの場所のルールなのに、そこに子どもの意思が見えなかったからだ。
「勉強が続いている」と聞いても喜べなかった
帰る間際、先生から最近少し変化が出ているという話を聞いた。ここ一、二週間ほど、子どもたちが少しでも勉強することを続けられている、という話だった。
先生はそれを前向きな変化として話してくれた。たぶん、本当に嬉しかったのだと思う。
でも、その話を聞いても、僕は素直に喜べなかった。
勉強が悪いと思っているわけではない。勉強して「分かった」と感じたり、知りたいことにつながったりしたなら、それは成功体験になる。本人が「やりたい」「知りたい」と思ったことが形になったなら、勉強にも十分価値がある。
ただ、今回の子どもたちに関しては、そこを簡単に喜んでいいとは思えなかった。
大人の顔色を見る子は、言われたことをできてしまう
僕が気になったのは、この子たちが大人の顔色をよく見る子たちだということだった。
怒られたくない。期待に応えないといけない。そう感じたとき、言われたことをやる力がある。だから、ただ勉強を継続させるだけなら、正直できてしまう。
僕はその子たちに勉強させることができないから、やらなかったわけではない。やらせようと思えばできると思っていた。でも、あえてしなかった。
理由は、そこで得られるものより、失うものの方が大きいかもしれないと思ったからだ。
学力は確かに伸びるかもしれない。でも、その代わりに「やってみたい」「知りたい」という気持ちを抑え込んでしまうかもしれない。
毎日少し勉強できた。ドリルを進められた。テストの点が少し上がった。そういう結果が出ることもあると思う。
でも、それが「しんどかったけど怒られずに済んだ」で終わるなら、僕はそれを成功体験とは呼びにくい。
大事なのは、勉強したかどうかではない。その行動が本人のものになっているかだ。
本当に怖いのは、勉強しないことではない
僕が一番怖いのは、子どもたちがこの場所での体験を通して、「自分の気持ちを出しても無駄だ」と感じてしまうことだ。
以前、その子たちと話している中で、こんな言葉を聞いたことがある。
どうせ何言っても怒られるから。
この言葉は重い。大人が思っている以上に重い。
子どもが「嫌だ」と言わないからといって、嫌ではないとは限らない。子どもが「はい」と言ったからといって、納得しているとは限らない。
特に、大人の反応をよく見ている子は、自分の気持ちよりも先に、大人が求めている答えを探すことがある。その子にとっては、反抗するより従う方が安全だからだ。
その状態で「勉強しよう」と言われたら、首を縦に振るしかない子もいる。大人から見れば素直に見えるかもしれない。でも、その素直さの中に、諦めが混ざっていることがある。
大人が安心するルールになっていないか
ルールがあると、大人は安心しやすい。
勉強している。計画を立てている。掃除している。振り返りをしている。そういう行動は見えやすいし、説明しやすい。
でも、見えやすい成果があることと、子どもの安心が守られていることは同じではない。
今回のルールを見たとき、それは子どもの安心のためというより、大人が安心するためのルールに見えた。
大人が安心したい気持ちは分かる。何も決めないまま子どもを見守るのは、不安が大きい。何かをさせた方が、支援している感じも出る。
でも、不登校の子どもたちに必要なのは、大人の不安を埋めるための形ではない。まず必要なのは、「ここでは自分の気持ちを出しても大丈夫だ」と思える空気だと思う。
この子たちに合う学び方を見たい
僕は、座ってドリルをする学びを否定したいわけではない。座学が合う子もいるし、ドリルで分かることが増える子もいる。
ただ、僕が見てきたこの子たちは、体験して、見て、触って、そこから知っていく方が合う気がしている。
何かを作る。外に出る。実物を見る。好きなことから調べる。そういう入り口からなら、「知りたい」が生まれる可能性がある。
勉強は、本来その先にあるものだと思う。先に「やらなければならない」が来ると、学びは苦しい作業になりやすい。でも、先に「知りたい」があると、同じ勉強でも意味が変わる。
だから僕は、勉強が続いているかどうかよりも、その子の中に「知りたい」「やってみたい」が残っているかを見たい。
従っていることを、納得していることと間違えない
今回の違和感を一言で言うなら、ここに尽きる。
子どもが従っていることを、納得していることと間違えたくない。
不登校の子どもたちは、何もできない子たちではない。むしろ、大人の空気を読みすぎるくらい読む子もいる。だからこそ、大人が決めたことをこなせたとしても、それだけで安心してはいけない。
その子は本当に選べているのか。嫌だと言えるのか。やりたいと言えるのか。自分の気持ちを出しても、関係が壊れないと思えているのか。
僕はそこを見たい。
学力は大事だと思う。勉強も必要になる場面がある。でも、今この瞬間に学力を急ぐことで、その子の自尊心や自己決定の感覚を削ってしまうなら、僕は立ち止まりたい。
「自分の気持ちを出しても無駄だ」という感覚は、大人になってからも残ることがある。だから僕は、勉強を続けさせることよりも先に、その子の気持ちが消えない関わりを大事にしたい。
僕が引っかかったのは、勉強ではない。ルールそのものでもない。子どもが自分の気持ちを置き去りにしたまま、大人の安心のために動かされていないかということだった。
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