子どもたちを、もっと信じてもいいんじゃないか

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今回の自然学校で、僕は改めてそう感じた。集合時間に遅れることが何度かあったけれど、そのたびに強く注意することを選ばなかった。

時間をどうでもいいと思っていたわけではない。子どもたちの動きや関係を見て、この子たちなら遅れても挽回できると思っていたからだ。

子どもを信じることは、何も見ずに任せることではない。表情や反応を見た上で、その子たちの中にある力を見ることに近い。

キャンプファイヤーで、なすび個人として話した

自然学校のキャンプファイヤーで、最後に振り返りをする時間があった。

そのとき僕は、子どもたちにこう前置きした。

今から話すことは、リーダーとか大人とか子どもとか関係なく、なすび個人として話すね。

事前に用意した原稿を読むような時間ではなかった。その場で、今みんなに伝えたいと思ったことを話した。

その中の一つが、集合時間の遅れについてだった。

強く注意しなかったのには理由がある

今回の自然学校では、集合時間に遅れることが何度かあった。

遅れがあったこと自体は事実だ。そこだけを切り取れば、「時間を守れていない」と言うこともできる。

でも僕は、そこだけを見ていなかった。みんなの動き、協力する力、お互いに声を掛け合う力、思い合う力を見ていた。

この子たちは、遅れてもきっと挽回してくれる。僕はそう思っていた。

実際、始まりが遅れることはあった。でも、終わりの時間が遅れたことは一度もなかった。

僕がキャンプファイヤーで伝えたかったのは、そこだった。遅れたことを責めるよりも、遅れたあとに取り戻した力をちゃんと見ていたと伝えたかった。

信じることは、結果だけを見ることではない。その前に、その子たちがどんな関係で、どんなふうに動いているかを見ることでもある。

信じた根拠は、事前の顔合わせにあった

僕がこの子たちを信じられたのは、何となく雰囲気で決めたからではない。

事前の顔合わせで、みんなでゲームをした。僕が全体に向けてじゃんけんをする。負けた子は脱落する。誰か一人でも僕に勝つか、あいこになって五回生き残れば、みんなの勝ち。そういうルールにした。

その途中で、話し合いの時間を設けた。

子どもたちは、そこで遠慮せずに意見を言い合っていた。顔を見合わせて笑い合う場面もあった。

もちろん、全員が同じ量の言葉を出していたわけではない。あまり意見を言わない子もいた。でも、その子たちは不満そうに黙っていたわけではなかった。ちゃんと納得している顔に見えた。

僕は「他に意見のある人いない?」と聞きながら、みんなの反応を見ていた。その反応が、嘘をついて我慢しているようには見えなかった。

だから、この子たちは関係ができていると判断した。誰か一人だけが場を動かしているのではなく、言う子がいて、聞く子がいて、納得して参加している子がいる。そういう集団に見えた。

自然学校の中でお互いに声を掛け合っている姿を見たことも、その判断につながっている。

放置と信じることは違う

ここは、僕の中でかなり大事なところだ。

放置と信じることは違う

放置は、やりたい放題になっていても見ないことだと思う。誰かが我慢していたり、誰かが傷ついていたりするのに、それを見ないまま「任せている」と言うのは、僕の感覚では信じることとは違う。

僕にとって信じることは、状況を見ることと切り離せない。

誰かが我慢していないか。納得していない子がいないか。言葉の強い子の意見だけで流れていないか。そこを見る。

もし、周りの子の意見を聞かずに、言葉の強い子の意見だけで全部が流れそうになっていたら、僕はそのままにはしない。

そのときは、「意見を言えていない人いない?大丈夫?」と聞くと思う。誰かを動かすためではなく、見えていない声がないかを確かめるためだ。

信じるという言葉は、ふんわりした優しさのように見えるかもしれない。でも僕にとっては、見ていないと使えない言葉だ。

子どもを何もできない人として扱わない

僕は、子どもたちを対等な人として見ている。

子どもには、まだ知らないこともある。経験していないこともある。言葉にできないこともある。

でも、それは子どもを何もできない人として扱う理由にはならない

僕より知識がある子もいる。好きなことに出会ったときの探究心が、とんでもなく深い子もいる。こちらの予想を軽く超える発想を返してくる子もいる。

四泊五日の自然学校で、子どもたちがすべて僕の予想通りに動き、予想通りの反応だけをしたことは、一度もない。

毎回、僕にはなかった視点を子どもたちは見せてくれる。

だから僕は、子どもたちをただ教えられる側として見ていない。すごいなと思うことが本当に多いし、尊敬している部分がある。

今回の集合時間のことも、その延長にある。

この子たちは何もできない。だから先に言わないといけない。そう見るのではなく、この子たちには挽回する力がある。声を掛け合う力がある。そう見た。

子どもたちを、もっと信じてもいいんじゃないか

キャンプファイヤーでは、この自然学校を本当に楽しみにしていたことも話した。

学校に着いて、先生に最初に伝えたのも、この自然学校をとても楽しみにしていたということだった。それくらい、僕はこの学校の子どもたちと過ごす時間を楽しみにしていた。

理由は、毎年この学校の子どもたちが、僕にいろんな面白いものや新しいものを見せてくれるからだ。

実際に今回も、子どもたちは僕が楽しみにしていた以上のものを見せてくれた。だから最後に、「本当に楽しかったです」「五日間ありがとう」と伝えた。

それでも、もう一度ちゃんとお礼を言いたいと思った。だから改めて、「五日間ありがとうございました」と言って、子どもたちに頭を下げた。

あの時間は、僕が子どもたちを評価する時間ではなかった。なすび個人として、子どもたちから受け取ったものにお礼を言う時間だった。

子どもたちを、もっと信じてもいいんじゃないか。

これは、子どもに何でも任せればいいという話ではない。子どもを理想化したいわけでもない。

ただ、何もできない人として扱わなくてもいいんじゃないかとは思う。

不登校の子どもと関わるときも、この視点は僕の中にある。学校に行っていないから、動けていないから、自信がなさそうに見えるからといって、その子の中に力がないとは限らない。

こちらが先に決めすぎる前に、子どもの表情や反応を見る。関係を見る。納得しているかを見る。その上で、信じられる場面では信じてみる。

子どもたちは、僕たちが思っているより力を持っている

今回の自然学校で、僕は改めてそう感じた。

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