「ゲームばかり」では見えない、不登校の子どもの学び

学びと遊び
僕は、教育をもっと「遊び」のあるものにしたい。

ここで言う遊びは、ゲームや外遊びのことだけではない。学ぶ方法にも、何を学びと呼ぶかにも、もっと幅があっていいと思う。

僕は学校の先生ではないし、学校現場のすべてを知っているわけでもない。それでも、不登校の子どもたちと関わる中で、「学びってもっと広くていいんじゃないか」と感じることが何度もある。

「学校に行っていない」「勉強していない」という理由で、自分を責めている子に出会う。でも、学校で机に向かう時間だけが学びではない。本人が「今、学んでいる」と気づいている時間だけが学びでもない。

「学んだ」と気づいていなくても、経験は残る

僕は、無駄になる経験は一つもないと考えている。

たとえば、僕が親の会や講演の場に呼ばれて話すとする。聞いてくれた人に何か残ることもあると思う。でも、話している僕自身も、「自分はこんなことを考えていたんだ」と気づくことがある。誰かに話すことで、自分の考えが整理されるからだ。

遊びでも同じことが起きる。鬼ごっこをして、「自分は走るのが得意なんだ」と気づく子がいるかもしれない。ドッジボールで、投げるのも取るのも苦手だけど、避けるのだけはうまいと気づく子もいるかもしれない。

ただ、すべての経験に大人が「これはこういう学びです」と意味づけする必要はない。自分では何も学んだつもりがなくても、判断の仕方や体の使い方、自分の得意不得意が、経験として残ることはある。後から気づくことも、最後まで意識しないこともある。

僕にとって学びは、大人が名前をつけて初めて成立するものではない。本人の中で起きていることを、まず見たいと思う。

ゲームの中で、子どもは何をしているか

僕は、不登校の子どもたちとゲームをすることが多い。

以前、小学2年生の頃からずっとスマブラを練習している子がいた。小学3年生のときに僕と3本勝負をして、最終的には僕が勝ち越したけれど、1本は普通に負けた。

そこまで上達するには、何度も遊んで、負けて、試して、操作を覚えてきたはずだ。その過程を「ゲームばっかりしている」で終わらせるのは、もったいないと思う。

マイクラでも、印象に残っているやり取りがある。この前、完全不登校の子に「鉄ブロックを3個作るのに必要な鉄インゴットの数は?」と聞いたら、「27個」と即答した。

鉄インゴット9個で鉄ブロックを1個作る。その子は、ゲームの中にある数の関係を使って答えていた。しかも、その子は計算を早くするために、10×3-3という計算方法を取っていた。

もちろん、これだけで「マイクラをやれば掛け算ができるようになる」とは言えない。でも、「学校に行っていないから何も学んでいない」とは言えないことが、この一場面からもわかる。

初めてやるゲームでも、驚くほど早くルールを理解する子がいる。スプラトゥーンのように戦略が必要なゲームでは、相手や味方の動きを見ながら、その場でやり方を変えていく子もいる。

僕が見ているのは、「ゲームが勉強の役に立つか」だけではない。その子が何を見て、何を考えて、どう工夫しているのかだ。大人が「学び」と呼んでいないだけで、そこにはすでにいろいろなことが起きている。

「やることやってから」の「やること」は誰が決めたのか

僕は、「やることやってからゲーム」という言葉を聞くと、少し引っかかる。

宿題や提出物、締め切り、安全のために必要なことを、何でも後回しにしていいと言いたいわけではない。状況によって、先にやった方がいいことは変わる。僕が気になるのは、その「やるべきこと」を誰が決めたのか、本人は納得しているのかということだ。

たとえば、毎日漢字ドリルを2ページやる決まりがあって、子どもが「これ、やる意味ないと思う」と言ったとする。

僕なら、まず「なんでそう思ったん?」と聞く。

もし「書いて覚えるより、読んで覚える方が早い。もうほとんど書ける」と言うなら、「それで十分できているなら、それでもいいんじゃない?」と思う。

逆に、まだ漢字がかなり苦手なら、ゲーム好きの子には「ゲームで読むときに困ることない?」と聞いてみる。

「別に困ってない」と言うなら、まずはそうなんだと受け取る。本当に読めているのか、文脈で補っているのか、読み飛ばしていても困っていないのか。それが気になるなら、一緒にゲームをすればいい。どうやって遊んでいるかを実際に見れば、わかることがある。

これは、どの子にも漢字ドリルは必要ないという話ではない。本人が困っていないと言うなら、その言葉を出発点にしたい。大人が必要だと考える理由があるなら、その理由も本人と共有したい。

「将来困るから」という言葉だけで、今の本人に必要性を感じていないものを押しつけることには慎重でいたい。必要になったときに、「これは知りたい」「できるようになりたい」と思えること。そのとき学びに向かえる力を残しておく方が、僕には大切だ。

「これが好き」と言えることを失わせたくない

学びに向かう力を残すためにも、好きなものを安心して出せる環境が必要だと思う。

たとえば、男の子がキティちゃんやシナモロールのキーホルダーを鞄につけていたとする。「えー、男なのに」と言われるより、「そういうの好きなんだ」と受け止めてもらえる方が、自分の好きなものを出しやすい。こういう話なら、ジェンダーバイアスの問題として捉えやすい人も多いと思う。

でも、ゲームの話になると急に、「そんなことして何になるの」「勉強してからにしなさい」という言葉が出てくることがある。ゲームが好きではない人がいてもいいし、別の意見を持つことも自由だ。ただ、子どもが「これが好き」と言ったときには、まず受け止めてほしい。

好きなものや自分の意見を否定される経験が重なると、それを人前に出すことに躊躇するようになる。少なくとも僕自身には、その感覚がある。

だから僕は、学力が一時的に下がることよりも、「これが好き」「これをやりたい」と言えなくなることの方が、将来的に大きな損失になる場合もあると思っている。指示されたことをこなす力だけでなく、自分で興味を持ち、選び、考えることの価値は、これからもっと大きくなっていくはずだ。

必要になったときに、学べる力を残したい

僕は勉強を否定したいわけではない。知ることが楽しい子も、問題が解けることが面白い子もいる。そういう子が勉強に夢中になるなら、それもいい。

ただ、勉強しているから価値があって、ゲームや遊びだから価値が低いとは思わない。好きなことに取り組み、試し、もっとやってみたいと思う。前向きな気持ちで何かに向かい、笑って取り組めていること自体にも価値がある。

必要になったときに、自分から「知りたい」と思えることを大事にしたい。そのためには、今の自分の好きなものを安心して出せることが土台になる。

学校かゲームか。勉強か遊びか。そんな二択にしなくていい。「この子はいま、何を面白がっているんだろう」「何を試しているんだろう」と見ていけば、不登校の子どもが自分を責める理由も、少し減るかもしれない。

僕は今、Instagramで発信を続けながら、フォロワー5000人を目標にしている。数字そのものが欲しいわけではない。こういう考え方を、もっと広いところまで届けたいと思っているからだ。

僕が広げたいのは、教育の方法だけではない。「何を学びと呼ぶのか」という見方そのものだ。

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