ところが、僕が初めて全員の前に立ったときは、同じようにはいかなかった。子どもたちが静かになるまで、かなり時間がかかった。
その場で僕が考えたのは、「静かにできるようになったことを、そのまま成長と呼んでいいのか」ということだった。
子どもたちは今の状況を見て動いていたのか。それとも、前に立っている人を見て行動を変えていたのか。
大人が強く指示すれば、その場は早く整う。でも僕が子どもたちに身につけてほしいのは、大人の顔色を見て動く力ではない。自分で状況を見て考え、必要なら仲間同士で声を掛け合える力だ。
いつもの人なら、すぐに静かになった
その活動では、普段から同じ大人が全体の進行を担っていた。
子どもたちに説明するときも、次の動きを伝えるときも、その人が前に立つことが多かった。活動が進むにつれて、子どもたちはその人が前に立つと、比較的早く静かになるようになっていた。
外から見れば、集団としてまとまってきたように見える。決められた流れに沿って動ける場面も増えていた。
大人数で動く活動では、一定のルールや指示が必要になる。安全に関わる場面なら、大人がすぐに止めなければならないこともある。時間が限られている中で、全体へ明確に指示を出す必要もある。
だから、子どもたちが大人の話を聞けること自体を否定したいわけではない。
ただ、決められた通りに動けることと、自分で状況を判断して動けることは同じではない。
僕が前に立つと、空気ができるまで時間がかかった
僕が全員の前に立って話すのは、その活動では最初で最後だった。
前に立った僕は、「静かにして」とは言わなかった。言えば静かになるかもしれない。でも、それでは子どもたちが自分で状況を見て動いたことにはならないと思ったからだ。
僕は、子どもたちが自分たちで気づき、話を聞く空気をつくるまで待った。
全く静かになれなかったわけではない。ただ、いつもの大人が前に立ったときと比べると、明らかに時間がかかった。
その姿を見ながら、僕は管理によってつくられた秩序の限界を感じた。
もし子どもたちが「今は話を聞く時間だ」と状況を見ていたなら、前に立つ人が変わっても、自分たちで同じ空気をつくれたはずだ。
でも実際には、いつもの進行役ではない僕が前に立つと、静かになるまで時間がかかった。
そこで僕は、「○○さん(いつもの進行役)がいないと、いつもみたいにできない?」と問いかけた。
誰が前に立っているかではなく、今は何をする時間なのかを、自分たちで考えてほしいと伝えた。
子どもたちは体操座りに座り直そうとした
僕がそう伝えると、子どもたちは一斉に体操座りへ座り直そうとした。
でも、僕が求めていたのは、姿勢をそろえることではなかった。
座り方は何でもいい。自分が一番集中しやすい座り方でいいよ。
そう伝えた。
大事なのは、体操座りができたかどうかではない。
誰が前に立っているかに関係なく、今は話を聞く時間なのか、それとも動いていい時間なのかを、自分たちで考えることだった。
その後、子どもたちの座り方はバラバラだった。
それでも、全員の顔がこちらを向いていた。真剣な表情で、僕の話を聞いていた。
形はそろっていなかった。でも、話を聞く空気はできていた。
その姿を見て、やっぱりこの子たちはかっこいいと思った。
大人を見て動くことと、状況を見て動くこと
「怒られたくないから静かにする」と、「今は話を聞く時間だから静かにする」は、外から見ると同じように見える。
どちらも、その場では静かになっている。でも、行動を選んだ理由は違う。
心理学の自己決定理論では、外からの圧力によって動くことと、行動の意味を自分なりに受け取り、自分の判断として動くことを分けて考える。
教育の場でも、子どもの考えや感情を受け止め、理由を伝え、選べる余地を残す「自律性を支える関わり」は、子どもの主体的な参加を支えると考えられている。
これは、子どもに何も求めない放任ではない。必要な枠組みを示しながら、その中で本人が考えて動けるようにする関わりだ。
今回の場面に当てはめれば、「あの人が前に立ったから静かにする」で終わるのではなく、「今は話を聞く必要がある」と子ども自身が意味を受け取れるようにすることが大切になる。
もちろん、最初は一人の信頼できる大人との関係から始まることもある。
肯定的な大人との関係が、子どもの活動への参加や関与と結びつくことは、教師と子どもの関係を扱った研究でも示されている。
まず「この人の話なら聞いてみよう」と思えることは、決して悪いことではない。
ただ、その人がいなければ動けない状態で終わらせたくはない。
一人の大人への信頼を入口にしながら、「なぜ今は聞く必要があるのか」「なぜこの行動が必要なのか」を伝える。
そして最後には、その大人がいなくても、自分たちで判断できるようになる。
僕が目指したいのは、そこだ。
管理は、その場を早く整えてくれる
管理には即効性がある。
強く言えば、早く静かになる。動き方を細かく決めれば、大きな混乱も減る。予定通りに進みやすくなり、大人も安心できる。
でも、その安心は、子どもが育ったことで生まれた安心ではないかもしれない。
大人が子どもの動きを制御できている安心かもしれない。
子どもが思った通りに動かないとき、大人は不安になる。時間に間に合わないかもしれない。事故が起きるかもしれない。場が乱れるかもしれない。
安全に関わる場面なら、その不安を無視する必要はない。危険な行動は止めるべきだし、大人が判断を引き受けなければならない場面もある。
ただ、安全とは直接関係のない場面まで、すべて大人が決める必要があるだろうか。
待っていれば、子どもたちが自分で気づくかもしれない。誰かが仲間に声を掛けるかもしれない。一度うまくいかなかった後に、自分たちでやり方を考えるかもしれない。
その時間を待てずに、大人が答えを出し続ければ、子どもは考える力を使う機会を失う。
できないから管理するのではなく、管理し続けることで、自分で考える機会を減らしている可能性もある。
子どもの力を信じられているか
僕は、一人ひとりが状況を見て考えられるようになってほしいと思っている。
それだけではなく、お互いに声を掛け合える集団になってほしい。
誰か一人が全員を管理しなくても、「今は聞こう」「そろそろ動こう」「こっちを手伝おう」と、子ども同士で必要な空気をつくれる状態だ。
僕は、子どもたちにはその力があると思っている。
できないと決めつけて大人が先回りすれば、子どもはその力を使う機会を失う。大人が信じていない力を、子どもだけに使えと求めるのは難しい。
これは、不登校の子どもと関わるときにも通じる。
本人が考える前に、大人が正解を決めていないか。将来への不安を理由に、本人の動き方まで管理しようとしていないか。
集団活動でも不登校支援でも、根にある問いは同じだ。
子どもを信じることは、何をしても黙って見ていることではない。
危険なことは止める。必要なことは伝える。理由も話す。
そのうえで、すぐに答えを与えず、考える時間を残す。失敗できる余白を残す。自分たちで声を掛け合える可能性を残す。
僕が前に立ったとき、静かになるまで時間はかかった。
でも最後には、子どもたちは自分でこちらを向いた。体操座りではなかった。姿勢もそろっていなかった。
それでも、全員が真剣な顔で話を聞いていた。
僕は、すぐに整うことよりも、その過程を大切にしたい。
大人の指示で生まれた静けさより、時間がかかっても、子どもたちが自分でつくった静けさを信じたい。
子どもが言うことを聞いてくれないとき、僕たちは子どもの力が足りないと考えていないだろうか。
その前に、大人が子どもの力を信じられているだろうか。
子どものためと言いながら、自分の不安を解消するために管理していないだろうか。
なすびの想いに共感していただけたら、OFUSEでの応援が力になります。
また、僕は訪問型の不登校支援も行っています。
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