そうではなくて、学校という場所がどうしてもしんどい子に対して、学校だけが人生の正解ではないこと、自分のやりたいことを自分のやり方で形にしていく道もあることを、もっと早い段階で見える場所に置いてもいいんじゃないかと思っている。
もちろん、学校には学校の役割があるし、その環境の中で安心して育っていく子もたくさんいる。ただ、その仕組みの中では力を出しにくい子もいて、僕はそういう子たちに別の選択肢も見せておきたいと思っている。
僕がこのことを考えるようになったのは、子どもたちと関わる中で、学校では見えにくい力を何度も見てきたからだ。
スーパーの袋とレゴと木の棒
たとえば、スーパーの袋を解体してパラシュートを作る子がいた。木の棒を削って木刀を作ろうとする子もいた。レゴのパーツを組み合わせて、ベイブレードを自分で作ってしまう子もいた。
どれも、大人が「こうやって作るんだよ」と教えたものではない。子どもが自分で面白がって、自分で試して、自分で形にしようとしていた。
僕はそういう場面に出会うたびに、ただ感心するというより、普通に一緒に面白がっていた。「それ面白いな」「もうちょいこうしたらどうなるやろ」と、横から評価するのではなく、同じ熱量でその場に入っていた。
そこでよく感じるのは、子どもたちは既存の正解をなぞっているわけではない、ということだ。あるものを一度ばらして、見立て直して、別の形に組み直している。覚えることとは少し違う種類の学びが、そこでは自然に起きているように見える。
覚えるだけでは育ちにくい力がある
そういう姿を見ていて思うのは、これは既存のものを覚えるだけでは育ちにくい力なんじゃないか、ということだ。
まずあるのは好奇心だ。ただ与えられたものを受け取るのではなく、「これ、こうしたらどうなるんだろう」と自分から手を伸ばしていく力がある。
それと同じくらい強く感じるのが、形にするまでやってみようとする根気だ。思いつくだけで終わらない。うまくいかなかったら少し変えて、また試して、納得するところまで持っていこうとする。
しかも、こういうときの集中はすごい。二時間くらいなら平気でやり続ける。途中で別の子が集まってきて、意見を出し合いながら少しずつ形が変わっていくこともある。それでも手は止まらない。うまくいくまでやってみようとする。その姿には、やらされている感じがあまりない。
この力は、特定の職業にだけ必要なものではないと思う。どこに行っても活きる力だと思う。ただ、その力が動き出すには条件がある気がしている。本人の中で「意味」が見えていることだ。
学校では「何のためにやるのか」が見えにくくなる子もいる
今の学校のしんどさの一つは、ここにあるのかもしれないと感じている。
子どもたちが何かに没頭するときは、その行為そのものに意味がある。飛ばしたい、作りたい、試したい、完成させたい。その意味が本人の内側にあるから、時間を忘れて動ける。
一方で学校では、「何のためにこれをやるのか」が子どもにとって見えにくくなることもある。テストのため、将来のため、みんながやっているから。もちろん、それが必要な場面もあるし、そういう形の学びが合う子もいると思う。
ただ、その意味が本人の中に落ちていない状態で努力だけを求められたら、しんどくなるのは自然なことでもあると思う。
興味がないことにはなかなか手が動かないのに、興味があることなら驚くほど集中する。僕が見てきた不登校の子たちは、その差がはっきりしていることが多かった。だから僕には、不登校が「やる気がない」というより、「意味を感じにくいことに自分を合わせ続けるのが苦しい」という形で表れていることもあるように見える。
子どもは自分から学び始める
子どもたちと過ごしていると、本当にそう感じる。
大人が教え込まなくても、子どもは自分で問いを立てる。試す。失敗する。調整する。もう一回やる。必要があれば人を巻き込む。その流れが、遊びの中でも、ものづくりの中でも、自然に立ち上がることがある。
もちろん、大人が何もしなくていいと言いたいわけではない。安心して試せる場をつくること、否定されない空気を守ること、必要な材料やきっかけを置いておくこと。そういう役割はあると思う。
でも、学びの中心にいるのは、やっぱり子どもの側なんだと思う。大人が主役になりすぎたとき、子どもの内側から立ち上がる学びは弱くなることがある。だから僕は、教えることそのものよりも、子どもが自分で動き出せる空気のほうを大事にしたいと思っている。
不登校を美化したいわけではない
ここは誤解されたくないところでもある。
不登校であること自体がしんどい子もいるし、苦しさの中にいる子もたくさんいる。だから、不登校だからすごいとか、不登校だから特別な才能があるとか、そんな単純な話をしたいわけではない。
ただ、学校に行けないことばかりに目を向けていると、その子がすでに持っている力まで見えにくくなることがある。僕はそこがもったいないと思っている。
苦しさは苦しさとして受け止めながら、その子が別の場で見せている動き、夢中になっている姿、自分から学んでいる瞬間までちゃんと見たい。それを見ないまま「学校に戻すこと」だけが目標になってしまうと、その子の可能性を狭めてしまうこともあるように思う。
不登校の子に見せたいのは「別の選択肢」があること
ここで言いたいのは、不登校の子はみんな起業家向きだ、という話ではない。
ただ、学校という枠に合わせるのが難しい子の中には、自分で考え、自分で作り、自分で意味を見つけながら進むほうが力を出しやすい子がいると思っている。そして、そういう子に対しては、「会社員になるための道」だけではなく、「自分で仕事をつくる」「自分のペースで働き方を選ぶ」という道も、早い段階から選択肢として知っていていいと思う。
それは起業を勧めるというより、生き方の幅を狭めないための話だ。
学校が合わないことと、力がないことは同じではない。むしろ、学校では評価されにくい形で強さを持っている子もいる。その強さがどこで活きるのかを、一緒に探せる大人でありたいと思う。
子どもたちは、ときどき大人が見落としていたことを平気で見せてくる。学びは教え込むものではなく、自分の中から始まること。人は意味を感じたときに動き出しやすいこと。正解が一つしかない社会のほうが、むしろ息苦しくなることもあるかもしれない、ということ。
だから僕は、不登校の子に何かを当てはめたいわけじゃない。ただ、その子が自分のやり方で生きていける選択肢を、最初からもっと開いておきたい。それだけは、はっきり思っている。
なすびの想いに共感していただけたら、OFUSEでの応援が力になります。
また、僕は訪問型の不登校支援も行っています。
「相談してみたい」「話を聞いてみたい」と思われた方は、こちらからご連絡ください。
完全訪問型フリースクール”なすび”をもっと見る
購読すると最新の投稿がメールで送信されます。

コメント