「安全のために」って言われたとき、子どもの安心はどこへ行くのか

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子どもとのスキンシップって、何となく話題にしづらいテーマだと思う。
抱っこやおんぶ、ぎゅっとくっつく時間。
それ自体はあたたかいはずなのに、「今のご時世だから」という言葉ひとつで、一気にグレーなものに変わってしまう空気がある。

僕は訪問型で不登校支援をしているけれど、このテーマから完全に逃げることはできない。
現場に出れば出るほど、「これは本当に子どものための安全なんだろうか?」と感じる瞬間に出会うからだ。

この文章は、誰かを批判したいわけではない。
ただ、スキンシップをめぐるルールや空気の中で、見えにくくなっているものがある気がしていて、そのことを言葉にしてみたいと思った。

現場で増えてきた「安全のためだから」という制限

子どもと関わる場にいると、スキンシップに関する自主規制のようなものを感じることが多くなった。
「抱っこは基本なしで」「ハイタッチくらいならいいけど」「今は触れるのはリスクが高いから」といった言葉を、いろんな場所で耳にする。

背景には、性被害やハラスメントの問題があるし、大人側が慎重になるのは当然だとも思う。
実際、「安全管理をどうするか」という視点を抜きにして子どもと関わるのは、今の時代には無責任だと感じている。

だから、「全部気にせず抱っこしたらいい」と言いたいわけではない。
ただ一方で、

「安全だからダメ」という言葉が、子どもの安心まで一緒に削ってしまっていないかという不安も同時に抱いている。

ルールがあること自体は悪くない。
でも、そのルールが誰の何を守るためのものなのかがぼやけたまま広がっていくと、現場にいる大人ほど身動きが取れなくなっていく。
結果として、一番しんどさを抱えている子どもたちの「安心のよりどころ」が削られてしまう場面もあるのではないかと思っている。

子どもは「安心できる相手」を身体で選んでいる

僕が不登校の子と関わる中で感じているのは、子どもは頭ではなく身体で安心を判断している、ということだ。
この人のそばは落ち着くのか。
気を張らずにいても大丈夫なのか。
ちゃんと見てくれるのか。

言葉で説明できないレベルで、子どもの身体はそれを感じ取っているように見える。

不登校の子と一緒に過ごしていると、ふとした瞬間に距離がスッと縮まることがある。
近くに座ってきたり、肩にもたれかかってきたり、黙って手を伸ばしてきたり。
その中のひとつに、「抱っこしてほしい」というサインが含まれることがある。

それは、いつもそうというわけではない。
初対面のときからいきなり抱っこを求めてくるわけでもない。
何度も会って、少しずつ安心が積み重なっていく中で、ようやく出てくる行動だと感じている。

だからこそ僕は、こういう行動は「甘え」よりも「この人なら大丈夫だ」という身体の選択に近いのではないかと思っている。

ここに、ルールをどうかぶせていくか。
それが今の現場の大きな課題のひとつなんじゃないかと感じている。

一瞬の抱っこは「自立を壊すもの」ではなく、心の充電かもしれない

小学生高学年の子でも、「抱っこして」と言ってくることがある。
不登校の子と関わっていると、小6の子が黙って近づいてきて、腕の中におさまるように座ってくることもある。

その時間、僕たちはほとんどしゃべらない。
何かを教えるわけでもなく、「こうしようね」と約束を交わすわけでもない。
ただ、お互いの呼吸の速さが少しずつそろっていくのを感じながら、ゆっくりとぎゅっとしているだけの時間になる。

その子は、完全に体重を預けてくる。
「この人に支えられている」というより、「この人に身体を置かせてもらっている」ような感じに近い。

しばらくすると、何事もなかったようにふっと離れていく。
ゲームに戻る子もいれば、別の部屋に行って自分の好きなことを始める子もいる。
ずっと抱っこされたまま動けなくなるわけではない。

僕はこの様子を見ていて、

これは自立を妨げる行動ではなく、心のバッテリーを一時的に満たすための充電なんじゃないかと感じている。

日常生活でずっと気を張っている子ほど、誰かに体重を預ける経験が少ない。
家の中で気を抜けなかったり、学校という場所そのものが怖くなっていたりすると、「安心して寄りかかれる大人」に出会う機会は本当に限られてくる。

そんな子が、一瞬だけでも「ここなら大丈夫」と感じられる時間を持てるなら、それはその子の心にとって大事な休憩になる。
その休憩を経て、もう一度自分の世界に戻っていく姿を、僕は何度も見てきた。

「ご時世だから」の一言で、何が切り落とされているのか

もちろん、だからといって何でもかんでも抱っこすればいいとは思っていない。
大人と子どもの距離感には、常に慎重でいたいと思っているし、性被害などのリスクを軽く見るつもりもない。

ただ、「今のご時世だから」「安全のためだから」という言葉は、とても強い。
その一言が出た瞬間に、場全体の判断が止まってしまうことがある。

本来なら、

・その子がどう感じているのか
・保護者はその関わりをどう見ているのか
・場の見通しは確保されているか
・大人側のコンディションは整っているか

そういった要素をひとつずつ確認したうえで考えるべきところを、まとめて「危ないかもしれないからやめておこう」で終わらせてしまう。

そのとき守られているのは、本当に子どもの心の安全なんだろうか。
それとも、大人が傷つかないための安心なんだろうか。

どちらが大事かを決めたいわけではない。
どちらも無視できないからこそ、安易に片方だけを優先したくないという感覚がある。

子どもの「必要」と、場の「安全」をどう両立させていくか

僕が大切にしたいのは、「抱っこは良い」と言い切ることでも、「抱っこは危ないからダメ」と言い切ることでもない。

必要な子もいれば、必要ではない子もいる。
同じ子でも、その日によって違う。
それを一律のルールで切り分けてしまうと、本当に必要なときに必要なものが届かなくなる瞬間が出てくると思っている。

だから本当は、その都度考えるしかない。
保護者の表情や、子どもの様子や、その場の空気や、自分自身の状態。
いくつかの視点を同時に見ながら、「今日はここまでにしておこう」「この子には、今はこの距離感がいいかもしれない」と決めていく作業が必要になる。

そのときの軸にしたいのは、ルールではなく目の前の子の「安心へのアクセス」をどう守るかという視点だ。

どうしても引っかかる要素があれば、その日はあえて抱っこをしない選択をする。
代わりに隣に座って話を聞いたり、視線を合わせる時間を長く取ったり、別の形で「ここにいるよ」と伝えることもできる。
スキンシップは、安心の唯一の方法ではないからだ。

でも、「安全」という言葉が先に立ちすぎると、そうやって丁寧に迷うことすら難しくなっていく。
迷う前に、「やめておいたほうが無難」という答えが出てしまうからだ。

僕は、子どもに関わる大人として、迷い続けるほうを選びたいと思っている。
その迷いはしんどいけれど、そのしんどさごと引き受けないと見えなくなるものがある気がするからだ。

安全が必要なのは間違いない。
でも、その安全が誰のための安全なのかを問い続けることも、同じくらい大事なんじゃないかと思っている。

その問いを手放さないまま、子どもの安心と場の安全を両立できるラインを、これからも探していきたい。


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