不登校は「問題」なのかーー皿回しと体験学習サイクルから考える学びの場所

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現場にいると、「不登校」はほとんどの場合「なんとか解決すべき問題」として扱われることが多いと感じる。

どうやったら教室に戻せるか。どの支援を使えば何週間で復帰できるか。
学校も保護者も、そこにすごくエネルギーを使っている。

もちろん、「学校に戻りたい」と本気で願っている子もいる。
その気持ちを一緒に支えることも、大事な関わりのひとつだと思う。

ただ、現場で子どもたちと過ごしていると、少し違う姿も見えてくる。

「学校に行けないこと」そのものよりも、
「学校に行かない自分はダメなんじゃないか」
「早く戻らないといけない」
そんな空気に追い詰められている子が、少なくないように感じている。

学校の中のフリースクールで感じた違和感

兵庫の小学校で、最近必須になった「学校の中のフリースクール」みたいな場所で働いているときがある。

教室には入れないけれど、学校には来ている子たちが集まる部屋。そこで一緒に過ごしていると、先生たちの口からよくこんな言葉が出ていた。

「どうやったら教室に戻れるか、一緒に考えよう」
「どのタイミングなら授業に参加できそう?」

言葉だけ見れば、子どもの気持ちを尊重しているようにも見える。
でも、部屋の空気全体を感じていると、そこにはうっすらとした前提があった。

「最終的には教室に戻るのがいちばんいいよね」

僕には、そんな前提がいつも漂っているように見えた。

子どもが本音を出しにくくなる「優しい選択肢」

印象に残っている場面がある。

ある日、先生がこう提案した。

「一日の中で、勉強の時間を作れたらいいよね。
朝イチはしんどいかもしれないから、2時間目と4時間目とかどうかな?」

子どもたちは静かに聞いていて、誰も「嫌だ」とは言わない。むしろ「それなら…」と、小さくうなずく子もいた。

その場だけを切り取ると、話し合いで決めているように見えると思う。

でも先生が部屋を出てから、僕は子どもたちに聞いてみた。

「さっきの話、みんな正直どう思ってる?」

しばらく沈黙が続いたあと、ぽつりと声がもれた。

「時間なんか決められたくない」
「その日になってみないと、2時間目と4時間目に勉強できるかなんて分からない」

ほかの子も、うなずきながら同じようなことを話してくれた。

そのとき僕の中でひっかかったのは、子どもたちが「本音を言わなかった」ことよりも、最初から用意されていた選択肢のほうだった。

2時間目と4時間目という案は、子どもから出てきたものではなかった。「勉強の時間をどこかに入れる」という前提も、最初からセットで置かれていた。

その前提の中で「いつならできそう?」と聞かれると、子どもたちは「正解を選ばなきゃいけない雰囲気」の中で答えざるをえなくなる。

僕には、そんなふうに見えた。

皿回しで回っていた体験学習サイクル

一方で、僕がよく持って行く遊び道具のひとつに「皿回し」がある。細い棒の先で皿を回す、あの遊びだ。

初めて持って行ったとき、子どもたちの反応はだいたいこんな感じになる。

「え、なにそれ?」
「やってみたい!」

興味を示す子もいれば、まったく近づいてこない子もいる。

最初に一通りのやり方は伝える。棒の持ち方、肘の位置、皿の回し始め方。
でも、その通りにやる子ばかりではない。

僕の説明を聞き流しながら、とりあえず触ってみる子。途中から自分なりのフォームに変えていく子。一度聞いてから、じっくり試していく子。

やり方は本当にバラバラだ。

中には、僕から見ると「あきらかにやりにくそう」な姿勢で挑戦している子もいる。それでも何回も何回もチャレンジして、自分なりのコツをつかんでいく。

「脇を閉じた方がやりやすいだろうな」と僕が思うやり方より、頭の上まで棒を持ち上げたほうが安定する、と感じる子もいる。

そうやって、それぞれが
自分にとってのやりやすさ
を見つけていく。

うまく回せるようになった子は、今度は教える側にまわる。

「こうやったらやりやすかった」
「回すとき、ちょっとだけ早くするといい」

自分の言葉で、自分のコツを伝えてくれる。

最後の一人が皿を回せた瞬間、その子だけじゃなく、周りで見ていた子たちまで自分のことみたいに喜ぶ。

あのときの部屋の空気は、今でもよく覚えている。

体験学習サイクルとして見てみる

この皿回しの場面を、体験学習サイクルの流れで見てみると、けっこうきれいに当てはまる。

体験学習サイクルは、「体験 → 振り返り → 一般化 → 適用」という四つの流れで学びが回っていく、という考え方がある。

皿回しでいうと、

  • まずは、棒と皿に触って実際に回してみる(体験)
  • うまくいくときと失敗するときの違いを、感覚で味わいながら見ていく(振り返り)
  • 「こう持ったほうが安定する」「この速さならうまくいくかも」と、自分なりのコツやイメージが言葉になってくる(一般化)
  • 思いついたやり方を試してみたり、友だちに教えてみたりする(適用)

この流れが、子どもたちの中で自然に何度も回っている。

誰かに「今から体験学習サイクルを回そう」と言われたわけじゃない。「それをやると学びになるよ」と説明されたわけでもない。

ただ「おもしろそう」と感じて、自分の体と感覚を使って遊んでいるうちに、結果としてしっかり学びが起きているように見える。

学びは学校の外にも広がっている

皿回しに限らず、こういう体験はそこら中に転がっている。
自然学校での体験や、日常の遊びの中でも同じだと思う。

たとえばYouTubeで、「なんでこうなるんだろう」と感じる動画に出会ったとき。画面の中で起きていることを見ながら、頭の中でシミュレーションしたり、自分の生活に当てはめて考えたりする子もいる。

以前、完全不登校の小学3年生の子から、こんな質問をされたことがある。

「放射線って、なに?」

きっかけは、おそらくYouTubeで見た動画だったと思う。
画面の中で起きていたことが、ただの映像として流れていかず、
その子の中に「なんで?」として引っかかった。

そのとき僕は、「難しいから今はいいよ」とは言わなかった。
中性子と陽子の話から、できるだけ噛み砕いて説明した。

学校の教科書で習うかどうかとは関係なく、
その子にとっては、その瞬間がまぎれもない体験で、
そこから考えが動き始めていたように見えた。

動画を見ること自体が目的だったわけじゃない。
「これって何だろう?」と感じたところから、
その子なりの学びのサイクルが、自然に回り始めていた。

「体験」というと、外でアクティブに動くイメージが強いかもしれない。でも僕は、画面越しの出来事も含めて、心が動いた瞬間は全部「学びの入り口」だと思っている。

不登校の子どもたちと関わっていると、学校に行っていない時間の中で、ゲームや動画、日常の遊びを通してものすごいスピードで吸収していく姿を何度も見てきた。

「学校に行っていない=学んでいない」では、まったくない。

むしろ、学校という枠から離れたからこそ動き出す学びも、たくさんあるように感じている。

学校以外でも学べる環境を増やしていきたい

ここまで書いてきたことは、あくまで僕が見てきた一部の現場の話にすぎない。

ただ、不登校の子どもたちと関わるなかで、どうしても気になってしまうことがある。

それは、社会全体の前提として「学び=学校」「不登校=問題」というカウントの仕方が、まだまだ強く残っていることだ。

この前提のままだと、学校でしんどさを抱えた子どもが、外の世界でどれだけ豊かな体験を重ねていても、「でも学校に行っていないから」と、その学びが見えにくくなってしまう。

僕は、皿回しの部屋で見たあの光景を思い出す。

それぞれが自分のやり方を見つけて、うまくいった子が次の子を支えて、最後の一人ができたときには、みんなで喜ぶ。

あれも立派な「学びの場」だった。
子どもたちに必要なのは、一つの正解に向かって戻される場所だけじゃなくて、
自分のペースで試したり、失敗したり、誰かの成功を一緒に喜んだりできる場所だと思う。

学校でそれができるなら、それもひとつの選択肢。

でも、もし学校という枠の中だけでは難しい子がいるなら、学校の外にも学びの場をひらいていくことを、もっと当たり前の選択肢にしていきたい。

不登校という言葉そのものが、子どもを縛るラベルではなく、
「いろんな学び方のひとつなんだ」と静かに言い換えられる社会に近づけたらいいなと思っている。

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コメント

  1. さもん より:

    デーモンコアってなんですかー?なすび先生笑

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