「不登校が過去最多です」
ここ数年、そんな言葉を目にする機会が明らかに増えた。
ニュースでも、教育関連の資料でも、この数字は「問題」として扱われることが多い。
でも正直に言うと、僕自身はその数字を見ても、強い危機感はあまり覚えない。
むしろ最初に浮かぶのは、
「休みたいって言いやすくなったんやろうな」
という感覚だ。
人数が増えたことそのものを、僕はリスクだとは見ていない。
それは楽観しているからでも、現状を軽く見ているからでもない。
子どもたちと実際に関わる中で、そう感じる場面が増えてきたからだ。
ただし同時に、
「不登校の人数が話題になっている=問題として扱われている」
この構造自体は、今もほとんど変わっていないとも感じている。
数字が増えたことよりも、僕が気になるのは「増えたことが問題として語られる」その語りのほうだ。
問題として扱われると、当事者は「説明しなきゃいけない側」に回る。
そして説明を求められるほど、選択ではなく「弁明」になる。
この時点で、本人の感覚は後回しにされやすい。
逆に言えば、もし来年「減った」と出ても、それだけでは安心できない。
休みたいと言いづらくなっただけかもしれないし、無理をして出席しているだけかもしれない。
数字は現象を映すけれど、子どもの内側までは映さない。
僕が見たいのは、出席か欠席かではなく、その子がその日をどう感じているかだ。
言いやすくなっても、肩身の狭さが消えない理由
なぜ、不登校が「問題」として語られ続けるのか。
なぜ、当事者やその家族が、どこか肩身の狭い思いを抱えやすいのか。
その背景には、とても単純な前提があると思っている。
学校は行くもの。
学校は行かなければならないもの。
この前提が、今も社会のベースにあるからだ。
ここで厄介なのは、「学校に行くべき」という前提が、善意の顔をしていることだ。
大人は守りたいから言う。
将来が心配だから言う。
本人のために、と思って言う。
だからこそ、子どもは反論しづらい。
行けない自分を否定するか、前提に逆らうか。
どちらも苦しい。
その板挟みが、罪悪感を強くする。
肩身の狭さは、空気の問題に見えて、実は構造の問題だと思っている。
極端な流れで整理すると、こうなる。
学校を休みたい。
↓
でも言っても「学校は行かないといけないものだ」と返ってくる。
↓
それは本人も分かっている。頭では理解している。
↓
それでも、心や体がしんどくて行けない。
↓
「行けない自分が悪いんじゃないか」という罪悪感が生まれる。
↓
結果として、肩身の狭い思いを抱える。
ここで起きているのは、本人の弱さの問題ではない。
「選択肢が一つしかない構造」の中で、そこから外れてしまったときに、誰でも起こりうる反応だ。
学校が「選択肢」ではなく「前提」になっている社会
学校が選択肢ではなく前提になっていると、
そこから外れた瞬間に「自分で選んだ」という感覚は持ちにくくなる。
残るのは、
「外れてしまった」
「ちゃんとできていない側に回ってしまった」
という感覚だ。
この状態が続くと、子どもたちは少しずつ学んでいく。
「どうせ言っても無駄」
「言っても、結局は学校に行けって言われるだけ」
学習性無力感というほど大げさではないかもしれない。
それでも、自己決定しようとする意欲そのものが、静かに削られていく。
これは、不登校になったから起きる話ではない。
学校一択という前提の中で、声を出した結果として起きる現象だ。
「やりたいことなんてない」という言葉の正体
不登校の子どもたちと話していると、
「やりたいことなんてない」
という言葉を聞くことがある。
でも僕は、この言葉を額面通りには受け取らない。
本当に何もないのか。
言ったら否定されると思っているのか。
気を使って言い出せないのか。
それとも、心に余裕がなくて、探す余白がないのか。
ケースは一つじゃないし、ほとんどの場合はいくつかが重なっている。
だから僕は、
「やりたいことを見つけよう」
とは言わない。
僕がやっているのは、答えを出すことじゃない
僕がその場でするのは、とてもシンプルな関わりだ。
「好きなこととか、
やってて楽しいなって思うことはある?
動画でもゲームでも、何でもいいよ」
そうやって、笑顔で聞く。
抽象から、固有名詞が出てくる瞬間
そうやって話していると、少しずつ変化が起きる。
「ゲーム」という言葉が、ゲームの名前になる。
「動画」という言葉が、具体的なチャンネル名になる。
この瞬間、世界が少しだけ具体になる。
やりたいことが「ない」状態から、
「これは知ってる」「これは好き」という自己表現へ。
自己決定の前に、まず自己表現が戻ってくる。
固有名詞が出てくるのは、小さな変化に見える。
でも僕にとっては、「世界が本人のものに戻ってきた」サインだ。
抽象の中では、誰の話でもできる。
固有名詞が出た瞬間、その子の人生の話になる。
自己決定は、いきなり大きな選択として現れない。
まずは「好き」「楽しい」「これは知ってる」という、ささやかな自己表現として戻ってくる。
その芽を踏まないために、僕は評価も意味づけも急がない。
急いで「良いこと」にしてしまうと、また正解のゲームになってしまうからだ。
僕が意識的にやらないこと
そのとき、僕が気をつけていることは明確だ。
知っているものなら、
「それ面白いよね」と言う。
知らないものなら、
「それってどんなん?」と聞く。
評価しない。
意味づけしない。
将来に結びつけない。
「それは役に立つね」
「将来につながるね」
そう言ってしまうと、その瞬間に、また正解の話になってしまう。
ここで大事なのは、結論を急がないことだ
「学校に行きたくない」と言われたときに、
「でも行かないといけないでしょ?」
と返すのか、
「今、行きたくない気持ちなんやね」
と受け止めるのか。
この違いは、とても大きい。
「聞く」というのは、相手の話を最後まで聞く、という技術の話だけじゃない。
答えの出ない感情の前に立ち止まる、という態度の話だ。
「今、行きたくない」
この言葉には、解決策が最初から入っていない。
大人はそこに耐えにくい。
だから「でも」「だって」「行かないと」と、正しさで埋めたくなる。
けれど、その埋め方をされるたびに、子どもは学ぶ。
感じたことを言っても、結局は修正される。
だったら最初から言わないほうが楽だ、と。
僕はそこを止めたい。
だから「そう感じてるんやね」と、まず置く。
置くことで、感情が「なかったこと」にされない。
それが、次の言葉を生む土台になる。
「聞く」ことは、すぐに何かを変える魔法じゃない。
でも、聞かれた経験は残る。
残った分だけ、次はもう少し言えるようになる。
その積み重ねが、選ぶ力を取り戻していく。
不登校が問題かどうか、ではなく
不登校が増えたかどうか。
社会がどう評価するか。
制度として正しいか。
正直に言えば、僕にとっては全部二の次だ。
僕の中にある判断基準は、ひとつだけ。
その本人が、どう感じているか。
どう考えているか。
そこを聞き取らないまま、先に進むことはできない。
学校以外の選択肢が当たり前になれば、不登校という数字の見え方も変わるはずだ。
学校に行く子がいて、別の場を選ぶ子がいて、家を選ぶ子がいる。
本来はそれだけのことだと思う。
そのとき大事なのは、どこにいるかではなく、「自分の感覚を信じて選べているか」だ。
僕がこのテーマで言いたいのは、結局ここに尽きる。
その子の話をちゃんと聞く。
その子がどう感じているかを、先に置く。
そこをずらさない限り、道は必ず見えてくる。
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