「普通に生きること」が、むずかしかった不登校時代

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学校に行って、友達と話して、笑って過ごす。
それがどれだけ難しかったかなんて、当時はうまく言葉にできなかった。
ただ、いつもどこかで「どうして自分だけ、うまくできないんだろう」と思っていた。

今回は、かつて不登校だった僕自身の経験から、
「不登校の子どもたちが、どんな思いを抱えているのか」について書いてみようと思う。


1. 学校に行けなかった子ども時代のこと

「普通に学校に行って、みんなと話して、遊ぶ」
そんな何気ない日常に、僕はずっと憧れていた。

でも、僕にはそれができなかった。
小学生の頃、僕は不登校だった。
明確なきっかけがあったわけではないけれど、教室に入るのが怖かった。
「また何か言われるかもしれない」「今日も居場所がないかもしれない」
そう思うと、教室のドアを開けるだけで、胸がぎゅっと締めつけられるような感覚になった。

掃除の時間になると、机を後ろに下げる場面がある。
でも、僕の机だけ、誰も動かそうとしなかった。
誰かと目が合っても、すぐにそらされる。
まるで、自分だけ存在しないものとして扱われているような気持ちになった。

目立ったいじめがあったわけではない。
でも、空気そのものが冷たくて、ひとつひとつの出来事が、
「自分はここにいていいのか?」という疑問を深く突きつけてくるようだった。


2. 教室に入る瞬間が一番怖かった

学校に行けなかった理由を聞かれても、うまく答えられない。
ただ、「教室に入るのが怖かった」という感覚だけは、はっきりと覚えている。

教室のドアを開けた瞬間に感じる、空気の重さ。
視線を向けられているような気がして、目を合わせるのが怖かった。
「また何か言われるんじゃないか」「今日は大丈夫かもしれない」
そんな希望を抱いても、数分後には「やっぱり今日も無理だった」と、心が縮こまっていた。

席に座っていても、そこに「自分がいていい」とは思えなかった。
誰にも話しかけられないまま時間だけが過ぎていくと、
だんだん自分の存在が薄れていくような感覚になっていった。

小学生ながらに、「このままここにいたら、壊れてしまうかもしれない」と思った。
でも同時に、「行けない自分はダメだ」と思い込んでいて、休むことすら罪悪感に変わっていった。


3. 唯一の避難所:ゲームという救い

学校に行けない日々の中で、僕にはゲームがあった。
楽しくて夢中になっていたのも確かだけど、
それ以上に、ゲームをしていないと心がもたなかった。

現実のことを考えずに済む時間。
誰にも否定されずに、自分のペースで進める世界。
その中に身を置いているときだけ、僕は安心できた。

ゲームの中では、僕は僕でいられた。
「何かができない自分」じゃなく、「ここにいてもいい自分」でいられた。
現実ではどんどん削られていく心を、
ゲームがギリギリのところで支えてくれていた。

誰にも話しかけられない日も、
「何か言われるんじゃないか」とびくびくしていた日も、
ゲームをしているときだけは、そのすべてを忘れることができた。

あれは、ただの娯楽なんかじゃなかった。
僕にとって、確かに“生き延びるための手段”だった。


4. あの頃の気持ちは、言葉にならなくても確かにそこにあった

当時の自分の気持ちを、はっきり言葉にできたことは一度もなかった。
でも、毎日いろんな感情が頭の中をぐるぐるしていた。
「行かなきゃいけないのに動けない」
「行ったらまた同じことが起きるかもしれない」
「どうせまた無視されるだけかもしれない」

そうやって悩んでいるうちに時間が過ぎていって、
気づけば、「どうせ今日もダメだった」と、自分を責める。
そんな繰り返しの中で、何に対してもしんどくなっていった。

子どもって、自分の気持ちをうまく言葉にできないことが多い。
でも、だからといって何も感じていないわけじゃない。
口に出せなくても、心の中ではちゃんと揺れてるし、
「どうしたらいいんだろう」と考えている。

もし、自分の子どもが何も言わずにゲームばかりしていたとしても、
その裏側では、たくさんの感情が眠っているかもしれない。
表に出てこないだけで、子どもなりに毎日必死で生きている。
あの頃の自分がそうだったように。


5. 子どもと関わる中で大切にしていること

僕はいま、不登校の子どもたちと関わる仕事をしている。
昔の自分と同じように、学校に行けなかったり、教室が怖かったりする子どもたちと、日々一緒に過ごしている。

関わる中で大切にしているのは、「全力で一緒に楽しむこと」。
子どもが好きなことに、こっちも本気で乗っかっていく。
ゲームでもスライムでも虫取りでも、なんでもいい。
その子が夢中になってるものに、僕も本気で向き合う。

子どもにとっては、「自分の好きなことを誰かと共有できる」という体験が、
安心や自信につながっていく。
それがきっかけで、自分の世界を広げていくこともある。

無理に「何かをやらせる」んじゃなくて、
「この人と一緒にいたら楽しい」「自分のままでいられる」
そう思ってもらえるような関わり方を大事にしている。

僕自身、子どもだった頃に「一緒に夢中になってくれる大人」がいたら、
もしかしたら、もう少し自分を信じることができたかもしれない。

だから今は、自分がそういう存在になりたいと思ってる。


6. 子どもが「やりたい」と言える世界を守るために

「ゲームばかりしている」「学校に行かない」
そんなわが子の姿を見て、不安になったり、焦ったり、怒りたくなったりするのは、当然のことだと思う。

でも、僕は伝えたい。

子どもは、見えている以上に、たくさんのことを感じている。
自分なりに考えているし、必死に日々を生きている。
ただ、それをうまく言葉にできないだけ。
そしてときには、自分でも自分の気持ちがわからないことだってある。

子どもがゲームに夢中になっているとき。
それは「現実逃避」ではなく、「安心できる世界」に身を置いているだけかもしれない。
学校に行けないことで傷ついた心を、ゲームの中で守っているのかもしれない。

「行けるようになった」ことだけをゴールにしてしまうと、
子どもが「自分を押し殺してでも合わせる」ようになることもある。
それは、成長ではなく、“あきらめ”かもしれない。

本当に大切なのは、「今、この子がどうありたいと思っているのか」に目を向けること。
子どもの“今”を受け止めて、そこから一緒に考えていくこと。
その積み重ねが、少しずつ子どもの「生きる力」になっていく。

「学校に行くかどうか」は、ただの手段。
本当の目的は、「この子が、この先、自分らしく生きていくこと」だと、僕は思っている。


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