「ゲームをやめさせたら登校した」って、それ本当に“成長”?

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「デジタル制限」は、本当に子どものためになるのか?

最近、「ゲームを取り上げたら子どもが学校に行けるようになった」
っていう話を、いろんなところで目にするようになった。

親の行動がきっかけで子どもが動き出したように見えるし、
支援者の立場でも「この方法は有効なのかも」って思ってしまいそうになる。

でも僕は、そこにちょっとだけ待ったをかけたい。

そのやり方、本当に“子どものため”になってる?


僕自身、かつて不登校だった子どもだった。

小学生の頃、朝になると学校に行きたくなさすぎて、38.5℃の熱が出てた。
それで休むと、熱はすっと下がる。
身体が「行きたくない」って叫んでたんだと思う。

でも、休んで楽になるかというと、そうじゃなかった。
学校に行けていない自分を責め続けて、
僕は心を病んで、自殺すら何度も考えてた。

それくらい、「学校に行けないこと」は苦しくて、
それでも「行かなきゃ」と思ってしまうくらい、
子どもはもう十分、自分を責めてる。

そんな状態で、ゲームまで取り上げられたら――
子どもは、逃げ場を失う。


「ゲームをやめさせたら変わった」って本当?

「ゲームを制限したらコミュニケーションが増えた」
「学校に行けるようになった」

よく聞く話ではあるけど、
それって本当に「変わった」って言えるんだろうか。

僕から見ると、それは
“親が子どもに寄り添った”んじゃなくて、
“子どもを親に寄り添わせた”だけに見える。


ゲームって、子どもにとってはただの娯楽じゃない。
自分の興味や関心をとことん極められる世界で、
誰にも否定されない、安心できる場所でもある。

僕は、子どもがゲームに夢中になってる姿を見たとき、
「今、この子は自分の世界を真剣に生きてるんだな」って思う。
それを「無意味」って切り捨てるのは、
その子の“人生の一部”を奪うことと同じだと思ってる。


「ゲームをやめさせたら学校に行った」っていうのは、
言い換えれば「子どもが頼れる世界を奪ったから、
仕方なく“親の求める世界”に戻ってきた」ってことでもある。

親の関心を引くためかもしれない。
怒られないためかもしれない。
あるいは、ゲームをする条件として、学校に行くことを選んだのかもしれない。

でもそれは、本当の意味で「行きたいから行っている」のとは違う。


不登校の子どもには、少なからず“自責の念”がある。
「学校に行けない自分はダメなんじゃないか」
「親を困らせてるんじゃないか」
そんな思いを抱えながら、毎日を過ごしてる。

そしてゲームまで制限されたら、
その罪悪感や苦しさと、ずっと向き合い続けるしかなくなる。


それでも「行けた」っていう結果だけを見て、
「やっぱりゲームが悪かったんだね」って言ってしまうのは、
あまりにも短絡的すぎる。

子どもが“行きたくない場所に、自分を押し殺して行くようになる”ことを、
果たして「成長」って呼べるんだろうか?

それは、本当の意味で「変わった」んだろうか?
それとも――ただ、「あきらめて従う」ようになっただけなんだろうか?


ゲームは「現実逃避」じゃない。もう一つの“世界”だ

僕にとって、そして多くの子どもにとって、
ゲームはただの遊びじゃない。

そこには、自分の好きなことを思いきり極められる世界があって、
現実では得られなかった成功体験があって、
誰かとつながれる居場所もある。

つまり、ゲームは“もう一つの現実”なんだと思う。

「現実に戻すためにゲームを取り上げる」って言葉をよく聞くけど、
ゲームだって、今ここに存在している“現実の一部”だと思ってる。

その世界で子どもがどれだけ本気で生きてるか。
それをちゃんと見ようとせずに、「逃げてる」と決めつけるのは、
あまりにも一方的すぎるのではないか。


「制限するか」より、「どう向き合うか」

僕は、基本的にデジタル制限は必要ないと思ってる。

もし制限がどうしても必要だと思うなら、
それは子どもとしっかり話し合って、納得の上で決めることが前提だと思う。
一方的なルールじゃなくて、「一緒に考える」っていう姿勢が大事。

目的は、「やめさせる」ことじゃない。
あくまで「整える」ため。
生活リズムのバランスをとったり、身体や心を守るための調整としてなら、意味があると思う。

でも、体調に影響がないなら、僕はとことん極めたらいいとさえ思ってる。


子どもが本気で向き合っていることを、否定せずに認める。
その中で少しずつ、自分のペースで広がっていく世界がある。

その経験は、結果的に「自分で選ぶ力」や「自己決定力」につながっていく。

無理にやめさせなくても、
子どもは自分の力でちゃんとバランスをとるようになる。

僕はそう信じてる。


「依存」は悪いことなのか?

ゲームの話になると、よく出てくるのが「依存」という言葉。

「うちの子、ゲーム依存で…」
「このままだと依存症になるんじゃないかって不安で…」

そんな声を聞くたびに、僕はモヤっとしてしまう。
もちろん、日常生活がうまく回らないほど没頭しているように見えたら、
不安になる気持ちも、わからなくはない。

でも、その前にちょっとだけ立ち止まって考えてほしい。

僕たちは今、本当に「依存」を見てるんだろうか?


僕が思う“依存”とは、
「何かにしがみついていないと自分を保てない状態」だと思ってる。

でも、それって「悪いこと」なんだろうか?

むしろ大切なのは、
“なぜそうならざるを得なかったのか”を見つめることじゃないかと思う。


学校ではうまくいかない。
家でも自分の気持ちを出せない。
安心できる場所がどこにもない。
そんな中で、唯一安心できたのが「ゲーム」だったとしたら?

それって、逃げ場じゃなくて“命綱”だよね。

僕はそういう子どもたちをたくさん見てきた。
そして思う。

その状態を「依存」と呼んで責めることに、
一体どんな意味があるんだろうって。
そもそも、「依存はよくないから制限しよう」っていうやり方自体が、
実は、“依存を深める構造”を大人が作り出してしまっていると僕は思ってる。

心理学には、「心理的リアクタンス」という概念がある。

これは、「自由を奪われた」と感じたとき、
人がそれを取り戻そうと強く反発する心理反応のこと。

ゲームを一方的に禁止されたとき、
子どもは「やっちゃダメ」と言われるほど、もっとやりたくなってしまう。
そして、その反動が強ければ強いほど、
隠れてやったり、より強くしがみつくようになったりする。

つまり、大人が「やめさせよう」とするほど、子どもはやめられなくなる
それって、本末転倒じゃないだろうか。


じゃあ、「夢中」と「依存」の違いってなんなんだろう?

僕はこう思ってる。

夢中=自分の意志で向き合っている状態
依存=不安から逃げるために、しがみついている状態

でもここで大事なのは、
「今この子は夢中か依存か?」をラベリングすることじゃない。
もっと大事なのは、

「この子にとって、今ここが“安心できる場所”かどうか」

っていう問いなんじゃないかな。


僕が子どもの姿を見ているとき、
ゲームにのめり込んでいても、「生きてるなぁ」と感じることがある。

やらされてるわけじゃなく、自分の力で工夫して、楽しんで。
それは、夢中になってる証だと思う。

もし「依存かな?」と感じたときは、
その前に「安心できる居場所があるか?」を見てみてほしい。

子どもがどこかにしがみついているとしたら、
それは、そこにしか安心がなかったからかもしれない。


依存は、安心の“入口”になることもある。

一度しっかり寄りかかって、
「ここにいてもいい」と感じられた経験があるからこそ、
人は自分の足で立とうとするようになる。

だから僕は、「依存されてもいい」と思ってる。

安心して寄りかかれる相手がいるからこそ、
子どもは自分のタイミングで「もう大丈夫」と言えるようになる。


自律って、“我慢”じゃない

「ゲームを制限して自律を促しましょう」
そんな言葉を、よく聞くようになった。

でも僕は、自律って「ちゃんと我慢できる子になること」じゃないと思ってる。

僕が考える自律とは、
「自分のやりたいことを、やりたい」と言えること。
そして、その選択を自分で決めて、行動できること。

それは、誰かにコントロールされる中では育たない。
むしろ、「否定されずに受け止められた経験」こそが、
自分の気持ちに正直になれる力=自己決定力を育てていくんだと思う。


子どもが「ゲームしたい」と言ったとき、
それを「またか」と突っぱねるのではなく、
「何がそんなに楽しいん?」と興味を持って聴いてみる。
そのやりとりの中にこそ、「自律の芽」がある。

本人の気持ちを一度受け止めて、
一緒に考えたり、話し合ったりすること。
それが、自分の内側とつながる力になっていく。

「やらせないこと」で自律は育たない。
「自分で選んでいいんだ」と思える経験こそが、自律の土台になる。


行けるようになった“だけ”でいいのか?

「学校に行けるようになったんです!」
そう語る保護者や支援者の声を、何度も見聞きしてきた。

たしかに、それはひとつの変化ではある。
でも、僕はいつも、その先のことを考えてしまう。

それって、“本当に行きたくて行ってる”んだろうか?
「戻った」ことがゴールになってしまってない?


ゲームを取り上げられて、やることがなくなったから学校に行く。
親に怒られたくないから、しぶしぶ学校に行く。
ゲームをする条件として、「仕方なく」学校に行く。

たしかに「行けた」かもしれない。
でも、それが目的になってしまっていたら――
子どもは、学校に行きながら、自分を押し殺して生きているかもしれない。


僕自身、昔は「学校に行けていない自分はダメなんじゃないか」と思い込んでいた。
だからこそ、無理してでも「ちゃんと行かなきゃ」って思ってた。
でも、その生き方は、心をどんどん削っていった。

「行けるようになったこと」がゴールじゃない。
子どもが“どう生きたいか”を取り戻していくことこそが、ほんとうの支援だと思う。

学校に行くかどうかは、手段のひとつでしかない。
大切なのは、その子が「自分で選んだ人生」を歩めているかどうか。
僕は、そこを一番に大事にしたい。


子どもの“今”に、ちゃんと目を向けてるだろうか

僕は、子どもたちと一緒にゲームをしてきた。
それは単なる遊びじゃなくて、
その子の世界に触れ、思いに近づいていくための大切な時間だった。

学校に行けない子。
学校に行くことに迷っている子。
家で心を閉ざしていた子。
そういう子たちが、ゲームの中では自分らしさを取り戻していた。

大人から見れば、「依存してるように見える姿」かもしれない。
でもその姿は、
自分の世界に本気で向き合っている、ただそれだけの姿だった。


「行けるようになった」という“結果”だけに目を向けてしまうと、
僕たちは、本当に大切なものを見落としてしまう。

子どもは、結果を出すために生きてるんじゃない。
誰かに合わせるために、自分を削って生きてるわけでもない。

「今、何を感じてるか」
「何に夢中になってるか」
「どんなふうに生きたいと思ってるか」

その命の声に、ちゃんと耳を傾けていきたい。


ゲームを取り上げること自体が悪いわけじゃない。
でも、「やめさせること」が目的になってしまったとき、
子どもは、「やりたい」と言うことすら、あきらめてしまう。

それって、自律でも成長でもなくて、ただの“従属”なんじゃないだろうか。

僕は、子どもが「やりたい」と言える世界を守りたい。

その声がまっすぐに育っていくような関わり方を、
僕たち大人が、一緒に選んでいけたらと思ってる。


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