本質って何だろうと立ち止まったときの感覚
最近、自分の支援や生き方の中で「本質って何なんだろう」と考えることが増えた。
学校の成績やテストの点数、不登校か登校か、ゲームか勉強か。
僕たちがふだん使っている言葉には、「正しい」「間違っている」「いい」「悪い」がくっつきやすい。
けれど僕の感覚では、それらはどれも表面に浮かんだ“結果”であって、その奥にあるものそのものではない感覚がずっとある。
たとえば、テストの点数だけで子どもを見てしまうと、「できる子」「できない子」というラベルがすぐに貼られてしまう。
でも、その子がどんな表情で問題に向き合っていたのか、どんな気持ちで答案用紙を出したのかまでは、数字には映らない。
そこにある緊張や不安、ちょっとした誇らしさや、誰にも言えていないしんどさは、外からは見えにくい。
子どもどうしのケンカを見ていても、行動だけを切り取れば「やった側」「やられた側」に分けられる。
でも、そこに至るまでの気持ちや、その子が背負っているものに目を向けないと、大事なところを取りこぼしてしまうように感じる。
僕はよく、「今見えているものは、本当にこの子の全部なんだろうか」と自分に問いかける。
あのときあの子は、どんな気持ちを飲み込んでいたんだろう。
この行動の奥には、どんな怖さや、どんな願いが隠れているんだろう。
こうやって「表面だけを見て、奥にあるものを見落としてしまう感じ」への引っかかりを辿っていく中で、僕は「本質観取」という言葉を知った。
もともとは、物事の表面ではなく、その奥にある本質を直感的にとらえようとする、そんなニュアンスを含んだ言葉らしい。
それを踏まえたうえで、僕はこの言葉を「正解を当てにいくのではなく、その奥で何が起きているのかを感じ取ろうとするまなざし」として、自分なりに受け取っている。
難しい言葉に聞こえるかもしれないけれど、やっていることはとてもシンプルだ。
急いで白黒つける代わりに、「この奥では何が起きているんだろう」と立ち止まってみること。
少しだけ余白を残したまま、目の前の子どもや出来事を見てみること。
本質観取という言葉は、その感覚にあとからついてきた“名前”みたいなものだ。
ゲームの悩みが、少しだけほどけた日
不登校の相談の中で、ゲームの話はよく出てくる。
「このままゲームばっかりで、大丈夫なんでしょうか……」
保護者の方が、ため息まじりにそう話してくれることがある。
そのとき、僕はいつも自分の中の決めつけを一度横に置く。
ゲームが好きな子どもを前にして、「ゲーム=悪いもの」とだけ見ることはしたくないからだ。
子どもたちがゲームの画面を通して誰かとつながっていたり、安心できる時間をそこで確保していたりする姿を、僕は何度も見てきた。
ある保護者の方と話していたときのこと。
その方は真剣な表情で、続けてこう言った。
「見ていると、ずっとゲームばかりなんです。
このままで本当に大丈夫なのかと思うと、不安で……」
僕の中にも、「その気持ちは分かるな」とうなずきたい部分がある。
心配だからこそ、目の前で長時間ゲームをしている姿を見るのが苦しくなる。
「このままでいいのか」と自分を責めてしまう親御さんの揺れは、とてもよく伝わってくる。
そこで僕は少し迷いながら、こんなふうに返した。
「本当にゲームがお好きなら、将来それを仕事にする道もありますよね。
プロゲーマーになるとか、ゲームを作る仕事に就くとか。
ゲームが“悪いだけのもの”とは限らないと思うんです」
僕の言葉が正しいかどうかは分からない。
ただ、その瞬間に保護者の方の表情がふっと緩んだのを覚えている。
「そんなふうに考えたことはありませんでした」
そう言いながら、少しだけ肩の力が抜けたような顔になっていた。
その後、そのご家庭でゲーム時間が急に減ったわけではない。
不登校の状況が劇的に変わったわけでもない。
でも、「ゲーム=悪」という一本の見方から少し離れたことで、
その子のことを眺める位置が、ほんの少しだけ変わったように感じた。
僕にとっては、その変化にちゃんと意味がある。
行動が変わることだけが「変化」ではない。
見方が一枚増えたとき、人の内側ではすでに変化が始まっている。
本質観取は、そうした小さな変化を見逃さないためのまなざしでもある。
余白があるときにだけ、見えてくるものがある
本質が見えなくなるのは、知識が足りないときではない。
むしろ、何かに強く確信を持ってしまったときだと僕は感じている。
「こうじゃないといけない」
「こうあるべきだ」
「これはこういうものに決まっている」
そう思った瞬間、頭の中の世界はとても分かりやすくなる。
でも同時に、別の可能性や、まだ言葉になっていない感情が、見えにくくなる。
ふだん僕は、何かを判断するときに、心の中でそっと自分に問いかけている。
「本当にそうだろうか?」
「他のパターンはないだろうか?」
「別の可能性は残っていないだろうか?」
この問いを持てているあいだは、まだ余白がある。
どちらにも転べる状態を、自分の中でいったん許している。
逆に、焦りや不安が強くなると、この問いが消えてしまうことがある。
時間に追われていたり、結果を急がれていたり、「今ここで決めなきゃ」と感じているとき。
そんなとき、僕の頭の中からは「本当にそうか?」という声がいなくなって、「多分こうだ」にしがみつきたくなる。
その瞬間が、僕にとっての「本質から少しズレ始めているサイン」だ。
本質観取は、立派な答えを見つける技術ではない。
そのサインに気づいたときに、もう一度だけ立ち止まって、
自分の中に余白を取り戻そうとする動きそのものだと思っている。
「正しかったかどうか」は、そもそも決められない
ここまで書いてきたこととつながるのだけれど、
僕はあまり「正しかったかどうか」を考えない。
というより、「正しかったか/間違っていたか」は、
そもそも決めようがないと思っている。
同じ判断でも、別のタイミングで、別のメンバーで、別の空気の中で選んでいたら、
きっと違う結果になっていたはずだ。
正解も、不正解も、本当は無限にある。
その中から「これが正解でした」と一つに絞る方法は、現実には持ちようがない。
だから僕は、「正しかったかどうか」という問いにはあまり力を使わない。
代わりに、「その判断に意味があったかどうか」のほうを見ている。
じゃあ、「意味があったかどうか」はどうやって分かるのか。
それは、その場に残ったものからしか感じ取れないと思っている。
たとえば、不登校の子どもと過ごしたある一日を振り返るとき。
その日、学校に行けたかどうかだけを見れば、「何も進んでいない」と感じるかもしれない。
でも、その子の表情がいつもより少し柔らかかったり、
これまで言えなかった本音がぽつりと出てきたりすることがある。
「今日はここができたから正解」とは、僕にはなかなか言えない。
でも、「今日はこんな気持ちが生まれていたな」と感じられることは多い。
その感情や表情を、ちゃんと受け取ってあげたい。
本質観取という言葉を使うなら、それは「正解を探す」のではなく、「その時間に流れていたものを丁寧に受け取る」ためのまなざしだと思う。
僕のものさしは、子どもたちの笑顔にある
最後に、僕が判断を振り返るときにいちばん大事にしているものさしの話をしたい。
それは、子どもたちが笑顔でいられたかどうかだ。
ここでいう笑顔は、元気いっぱいの笑顔だけじゃない。
ほっとした表情も、力が抜けた顔も、静かに安心している顔も、全部含めて笑顔だと思っている。
そこに順番はない。
その場にいた子どもたちが、少しでも「ここにいていい」と感じられていたか。
自分の気持ちを、自分の言葉で少しでも出せていたか。
その空間に、自分なりの居場所を見つけられていたか。
不登校の子どもたちと関わっていると、結果だけを見れば「何も変わっていないように見える日」もたくさんある。
でも、そういう日の中にも笑顔はちゃんとあって、
その笑顔が生まれたのなら、その時間にはきっと意味があったと僕は思いたい。
本質観取は、立派な言葉に聞こえるかもしれないけれど、
僕にとっては、「その子の笑顔をちゃんと受け取る」という、とても素朴な願いとつながっている。
正解を当てにいくより、意味を一緒に味わいたい。
僕はこれからも、その余白のあるまなざしを大事にしながら、子どもたちと並んで歩いていきたいと思っている。
子どもたちが自分らしく生きる力を育むために、日々活動しています。
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