役割ではなく、在り方で信頼は生まれる

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「先生っぽくないね」と言われることが多い

「先生っぽくないね」
子どもたちから、よくそんなふうに言われる。

たとえば自然学校の活動の中や、フリースクールでの関わりの中。
先生と呼ばれるような立場にいながらも、「なんかちがう」と思われることが多い。

でも、その言葉に戸惑うことはなかった。
なぜなら、自分でも「先生らしく」ふるまっているつもりがないからだ。

保育士として、看護師として、支援者として──
いろんな肩書きはあるけれど、僕にとってはただの“名札”のようなもの。
必要に応じて使うことはあるけれど、
人と関わるときには、いつも“なすび”でいる。


役割を「脱ぐ」のではなく、そもそも“着ていない”

僕にとって、肩書きはパフォーマンスだ。
「この人は何をしている人なのか」を伝えるために、時々つける“名札”のような感覚。

だから、「役割を脱ぐ」というより、もともと着ていないのが自然な状態。
「支援者っぽさ」や「先生らしさ」を演じることは、僕にとってとても不自然なことだ。

子どもたちと関わるときに必要なのは、役割じゃなくて、
“その人がどんな在り方でそこにいるか”だけだと思っている。

肩書きで信頼されることよりも、
何者でもない僕として安心してもらえることの方が、よっぽど大切だと感じている。


子どもの頃から、「上下」の感覚があまりなかった

「先輩なんだから、ちゃんと挨拶しなさい」
「年上なんだから、敬語を使いなさい」

そう言われるたびに、どこかしっくりこないものを感じていた。
子どもの頃からずっと、「先に生まれた」というだけで上下が決まることに、納得できなかった。

もちろん、社会の中ではある程度の距離や礼儀が必要な場面もある。
でも、人と人との関係の本質って、そこじゃないはずだと思っていた。

年齢や立場、役割よりも、「目の前にいるその人が、どんな人か」
僕はいつも、そっちのほうに関心が向いていた。

だから今でも、子どもたちと関わるときに「教える人」と「教えられる人」という感覚はあまりない。
ただ、一緒にいる。
それだけのことが、とても自然で心地いい。


役割の中に閉じ込められると、言葉が平たくなってしまう

支援者や先生という立場の人が発する言葉を聞いていて、ふと思うことがある。
「この言葉って、誰にでも言えるな」と。

もちろん正しいことを言っている。
でもそこに、その人自身の感じていることや、その場にしかない空気が乗っていないように感じることがある。

せっかくその人にしかない経験や感覚があるのに、
役割に寄せすぎることで、言葉が硬くなってしまっている。
「支援者としては、こう言うべき」
「親としては、こうあるべき」
そういう思考が強くなるほど、その人自身の言葉は奥に引っ込んでしまう。

もったいないなと思う。

誰かのためを思ってかけた言葉が、
結果的に“誰の心にも届かない言葉”になってしまう。
それは、すごく惜しいことだと思う。


“先生”を脱いだ人の自然な空気

だからこそ、逆に「役割を脱いで、ただ自分としてそこにいる人」に出会ったとき、
その言葉やふるまいには、強く惹かれるものがある。

たとえば、自然学校で出会ったある先生。
その人は、「先生として子どもたちを導く」といった空気をまったくまとっていなかった。

プログラムに参加する姿勢も、子どもたちを見守るというより、
「自分が楽しみに来てる」ような雰囲気。
説明を聞くときも、アクティビティに加わるときも、
どこかワクワクした表情で、まるで自分もひとりの参加者みたいにそこにいた。

子どもと関わる立場にある大人が、
「何かしてあげなきゃ」「ちゃんと見守らなきゃ」という意識から少し外れたとき、
こんなにも空気がやわらかくなるんだと感じた。

その人が放っていたのは、「役割のない人の安心感」だった。
そういう大人がそばにいると、子どもたちも自然にリラックスしているように見えた。
僕自身も、「こういうふうに、ただ楽しんでいいんだ」と、すごくほっとした。


距離を取るときは、「役割を着ている自分」がいるとき

一方で、どうしても“役割を着なければならない場面”というのもある。

たとえば、制度上のやりとりが必要なとき。
支援者としての説明が求められるとき。
関係者の前で、きちんとした立場としてふるまわなければならない場面では、
僕も自分の肩書きを前に出すことがある。

でも、そういうときは不思議と、子どもとの距離が自然と開いていく。

意識しているわけじゃないけれど、
“なすび”として関わるのとは明らかに違う空気が、そこに生まれる。
子どもたちの輪に入らず、少し距離を取って見守るような立ち位置になる。
声もかけすぎないし、自分から動くことも少なくなる。

それはきっと、僕自身が「肩書きの自分」でいようとするときに、
無意識に線引きをしてしまっているからだと思う。

役割を脱いで関わるときのほうが、僕は自然で、呼吸もしやすい。
だからこそ、必要に応じて“着る”ことがあっても、
それが自分にとって特別なモードであることは、いつも感じている。


「役割を脱ぐのが難しい」と感じるのは、なぜだろう?

「役割を脱ぐって、そんなに難しいことかな?」
僕はときどき、そんなふうに思うことがある。
でもそれは、たぶん僕が“役割を着ていない状態”に慣れているからかもしれない。

実際、「ただ自分として関わる」ことに、不安や怖さを感じる人は多い。
それってどうしてなんだろう。

もしかすると、社会の中で「役割ありきの関係」があまりにも当たり前になっているからかもしれない。
親として、先生として、支援者として──
それぞれの立場に求められる“あるべき姿”があって、
その通りにふるまうことが「ちゃんとした大人」だとされている。

「親なんだから、しっかり育てないと」
「先生なんだから、導かないと」
「支援者なんだから、支えないと」
そんなふうに“役割の正しさ”が先に立つと、
自分として関わる余白がどんどん小さくなっていく。

立場や肩書きがあると、何をどうすればいいかが見えて、安心感につながることもある。
うまくいかなかったとき、「これは自分じゃなくて“役”の判断だった」と思えることで、
傷つかずに済むこともあるのかもしれない。

でも、もしその役割を外したときに見えてくるのが、
守りのない、素の自分だったとしたら──
そのままで関わるのは、やっぱり少し勇気がいることなんだと思う。


それでも、「ただの自分」で関わるという選択

僕自身は、いつも“なすび”として関わっている。
肩書きも、立場も、関係ない。
それが自然だと感じてきた。

でも最近になって、
「それが自然にできるって、当たり前じゃなかったんだな」と思うようになった。
むしろ、それが難しいと感じる人の方が多いのかもしれない。

それでも、役割の外にある空気の中でしか起きないことが、確かにある。
安心とか、信頼とか、「一緒にいる心地よさ」とか──
そういうものは、何者かとして関わるよりも、
「ただの自分」で関わっているときに、自然に生まれる気がしている。

もちろん、無理にそうならなくてもいい。
でも、ふとした場面で「これは役としてしゃべってるのかな?それとも、今の私はどう在りたいんだろう?」
そんな問いを持つだけでも、関係のかたちは、そこからまた変わり始めるのかもしれない。

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