本能としての学び
子どもって、本来“学びたがり”の存在なんじゃないかと思う。
たとえば赤ちゃん。言葉も話せないうちから、周りをじーっと観察して、気になるものがあったら指をさす。
あの行動、ただの仕草じゃなくて、「これなに?」「見てほしい」っていう意思表示なんだそう。
世界中の赤ちゃんがやっているって聞いたことがあるけど、それだけで「知りたい」「伝えたい」って気持ちが生まれながらにあるって、すごいことだなって思う。
言葉の習得だってそう。
誰かが「これは主語でこれは動詞だよ」なんて教えなくても、子どもたちは自然に言葉を覚えていく。
大人の話すのを聞いて、マネして、だんだん文法まで身についていく。
そうやって“教えられなくても学んでいく力”を、子どもたちはもともと持っている。
だから僕は、「教育」って、教えることがメインじゃないと思ってる。
子どもたちの中にある“学びたい”って気持ちをどうやって引き出していくか、どうすればその力を信じられるか。
それを考えることが、本当の意味での教育なんじゃないかなって思う。
安心できる空気が、学びをひらく
子どもたちの“学びたい”って気持ちが自然にあふれてくるときって、どんなときなんだろう。
僕はそれ、きっと「安心できてるかどうか」だと思ってる。
逆に言うと、「こうしないとダメ」「こんなふうに感じちゃいけない」って空気があると、子どもたちのアンテナってすごく鈍る。
だって、自分の感覚よりも、まわりの目を気にしないといけなくなるから。
何かを学ぼうと思ったとき、いちばん大事なのは「自分の感覚を信じられること」だと思う。
それってつまり、「感じたままに感じていいんだ」って思えること。
「そんなふうに思ったらダメ」って言われない、ジャッジされない空気の中にいるとき、子どもたちはびっくりするほどよく観て、よく聴いて、どんどん吸収していく。
大人がつい「正しさ」や「成果」を求めたくなる気持ちも、わかる。
でも、子どもにとって大事なのは、“うまくやること”よりも、“自分で感じること”。
安心できる空気があってこそ、本来持っている学びの力が、のびのびと発揮されていくんだと思う。
自信が育つとき、学びは動き出す
「学びたい」「やってみたい」っていう気持ちが出てくるタイミングって、実はすごく繊細だと思う。
僕が子どもたちと関わっていて感じるのは、それが出てくるときって、だいたい“ちょっと自信がついたとき”だったりする。
何かを無理やりやらせたわけじゃなくても、好きなことに夢中になっていたら、ふと「これやってみたいかも」って言い出す。
それは、大人に褒められたからじゃなくて、「自分でやってみた → できた → 楽しかった」っていう体験の積み重ねから、じわじわと湧いてくるもの。
大げさな目標とか、成果なんかじゃなくていい。
たったひとつ、「自分でもやれた」「自分にもできることがある」って感じられたとき、子どもたちはすごく自然に前に進みはじめる。
だから僕は、子どもたちの“自信の芽”みたいなものを、大事にしたいと思ってる。
すぐに結果が見えなくても、その芽が育てば、ちゃんと学びのエンジンは動き出すから。
教育って、なんだろう
教育って言葉を聞くと、つい「教えること」が浮かぶ人が多いと思う。
でも僕は、不登校の子どもたちと関わる中で、それだけじゃないなって思うようになった。
子どもって、本来、すごい力を持ってる。
教えられなくても、自分で見て、感じて、やってみて、そこからたくさんのことを学び取っていく。
でも、その力が発揮されるかどうかは、環境による。
安心できる空気の中で、自分のことを少しでも「いいかも」って思えたとき、子どもたちは自然に「やってみたい」って言い出すようになる。
だから僕は、教育って「どう教えるか」じゃなくて、
「どう信じて待てるか」なんじゃないかって思ってる。
子どもを変えようとするんじゃなくて、その子がもともと持ってる力を信じて、その隣にいられるかどうか。
それだけで、きっと十分なんだと思う。
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