「見守る」って、よく聞くけど――それって何をすること?
「子どもを信じて、そっと見守ることが大切です」
そんな言葉を、支援の現場でも、保護者向けの本でも、よく耳にする。
だけど僕は、そこにずっと違和感を抱いていた。
「見守る」って、どういうことなんだろう?
そもそも“見守っている状態”って、意識してつくるものなんだろうか?
子どもの自立のために、手を出さないこと?
助けを求められるまで、そっと距離を取ること?
言葉だけを聞くと、どこか“放置”にも近いような、そんな印象すら受ける。
だけど僕は、「見守る」っていうのは、
“あえて関わらない”ことじゃないと思ってる。
もっとずっと、自然で、あたりまえの人間関係の中にあるものなんじゃないかと感じてる。
「見守ってるぞ」と意識した時点で、構えてしまっている
よく、「今は見守るタイミングだから…」とか、「ここはあえて手を出さないで…」って言葉を聞く。
もちろん、それが必要な場面もあるかもしれない。
けど僕自身は、そういうふうに「介入する/しない」を意識して区切って関わっているわけじゃない。
というよりも、そもそもそんなふうに「切り分けよう」としていない。
僕の中では、子どもとの関わりは常に“対等”で、
一緒に笑って、一緒に話して、自然に一緒にいる時間が流れている。
たとえば、普通に雑談して、冗談を言い合って、
こっちも自分の気持ちを出して、相手の気持ちをそのまま受け取って。
それって、特別な“支援”でもなければ、“見守ってる時間”でもない。
ただの人と人としての関係。
“見守る”という言葉すら必要ないくらい、自然な関係性の中にあるものだと思ってる。
「何もしない」=“放置”でも“無関心”でもない
だから僕は、「見守る=何もしない」って言われると、ちょっと違和感がある。
もちろん、目に見えるアクションを“あえてしない”こともある。
でもそれは、「関わらない」って意味じゃない。
“普通に接する”って、実はすごく大事なことだと思う。
会話もするし、冗談も言うし、
相手が笑ったら一緒に笑うし、泣いてたら一緒に沈黙する。
ただそれだけの時間を、心地よく一緒に過ごすこと。
見守るっていうのは、「構えて何もしないこと」じゃなくて、
「肩の力を抜いて、そこに自然に居ること」なんじゃないかな。
放置でも、支配でもなくて、
ただ“普通に人として関わること”。
それが、僕にとっての「見守り」の始まりだと思ってる。
子どもが心を開いてくれていると感じるとき
僕が「この子、安心できてるな」と感じる瞬間がある。
それは、心の内側を素直に出してきてくれたとき。
たとえば、自分の気持ちをぽつりと話してくれたときや、何気なく僕のことをいじってきたり、からかってきたりするとき。
そういう時、「あぁ、この子はここを“安全な場所”だと感じてるんだな」って、ふっと思う。
信頼って、言葉で「信じてます」とか「頼ってます」って言われることじゃない。
むしろ、何気ない空気の中ににじむものだと思ってる。
見守りとは、「安心して育っていける空気」を一緒につくること
子どもは、いつでも、常に成長し続けていると思う。
「今この瞬間に成長した」って見える時もあるけれど、
本当は、生きているその時間すべてが“育ちの連続”なんじゃないかな。
だから、特別なタイミングを見つけようとしたり、
「今が介入のとき」「これは見守る場面」と考える必要はない。
ただ一緒にいる。
ただ普通に過ごす。
その中で、子どもは自分のペースで育っていく。
大切なのは、子どもが安心していられる空気を、一緒につくること。
それが、「見守り」っていう言葉の本当の意味なんじゃないかと、僕は思ってる。
「見守る」とは、“コントロールしない”という選択
見守るって聞くと、「手を出さずに見ていること」みたいに思われがちだけど、
僕にとっての見守りは、「コントロールしないこと」だと思ってる。
「正しい方向に導こう」とか、「この子のために」と言って行動を促すこともあるけれど、
それって、知らないうちに“子どもを変えようとする力”になっているかもしれない。
本当の意味で見守るっていうのは、
「この子はこの子のままでいい」と信じること。
自分の理想を押しつけずに、相手のタイミングを待つこと。
その姿勢が、結果として子どもの中に“自分で動き出すエネルギー”を育てていくんだと思う。
僕がやっているのは、「一緒に笑ってるだけ」かもしれない
ふざけあったり、くだらないことで笑ったり、
ときにはスライムで遊んで、わけのわからない話をして。
そんなふうに、ただ子どもと自然に過ごしてるだけの時間。
それだけでも、ちゃんと「見守り」になっているのかもしれない。
むしろ、“何かをしてあげよう”という構えがないからこそ、
子どもは安心して、自分のリズムで過ごせるんだと思う。
支援じゃなくて、ただの関係。
“支える”でもなく、“支えられる”でもなく、ただ“共に在る”。
その空気があれば、きっと子どもは自分で育っていける。
「見守る」ことは、“変えようとしない愛”かもしれない
僕は、「子どもが変わること」を目的にはしていない。
もちろん、何かに挑戦できるようになったり、
ちょっとずつ表情が明るくなったりしたら嬉しいけれど、
そういう変化を“ゴール”にはしていない。
大事なのは、「その子がどう変わるか」じゃなくて、
「どんなふうに今を生きているか」を一緒に感じること。
その中で、子どもが少しずつ「自分で選ぶ力」を取り戻していくなら、
それはもう“支援の成果”じゃなくて、ただの“いのちの力”なんだと思う。
だから僕は、今日もただ隣で笑っていたい。
それが、僕にできる「見守り」のすべてだと考えている。
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