「不登校の子に何ができるか」より、「どう在るか」

Uncategorized

「支援」という言葉を耳にすると、

少しだけ距離を感じることがある。

それは、支援という言葉が悪いとか、考え方が間違ってるという話じゃない。

ただ僕自身は、“支援しよう”と思って動くよりも、

“その子と一緒に生きる”という感覚のほうがしっくりくる。

誰かを支えるって、意識してやることもできるけれど、

気づいたら自然にそうなっていた、

そんな関係もあっていいと思っている。


子どもとしてではなく、人として関わる

僕は、子どもと関わるときに「子どもだから」という意識をほとんど持っていない。
年齢や立場よりも、目の前にいる“ひとりの人”として向き合うことを大切にしている。

「対等であること」を意識しているわけでもない。
むしろ、友人と話すときに「今、対等に話せているかな」なんて考えないように、
自然とそうなっているだけだと思う。

その感覚があるから、支援しようとか、導こうとかいう発想が出てこない。
一緒に笑って、一緒に考えて、
その時間を生きているうちに、いつのまにかお互いに支え合っている。

僕にとって“支援”は、そういう時間の積み重ねの中に生まれていくものだ。

一緒に“やってみる”という関わり方

僕は、何かを「やってあげる」よりも、
「一緒にやってみる」ことのほうが好きだ。

どんな小さなことでも、とりあえず一緒に手を動かしてみる。
その結果うまくいかなくても、それでいい。
うまくいくことよりも、「やってみた」っていう体験のほうが、
子どもにとってずっと大きな意味を持つからだ。

そして不思議なことに、そうやって一緒に過ごしているうちに、
「次はこうしてみようかな」とか「もう一回やってみたい」という声が、
子どもの方から自然に出てくることがある。

その瞬間に、僕は“支援の結果だ”なんて思わない。
ただ、「今、この子が自分の力で動こうとしてるんだな」と感じるだけ。
それが一番うれしい。


正しさより、楽しいかどうか

僕は、何かをするときに「それが正しいかどうか」はあまり考えない。
どちらかといえば、「それは楽しいかどうか」で動いている。

正しさを意識すると、行動が急に窮屈になる。
誰かに合わせようとしたり、失敗しないように考えすぎたりして、
気づいたら自分の素直な感覚を見失ってしまう。

でも、楽しいと思えることには、自然と力が湧いてくる。
「やってみたい」と思った瞬間に、もう半分は動き出している。
それは子どもたちの姿にもよく似ている。

アニメ『宇宙兄弟』に出てくる金子シャロン博士が、
「どっちが正しいかじゃなくて、どっちが楽しいかで決めなさい」
と言っていた。
僕にとっては、支援も生き方もまさにその言葉の通りだと思っている。

正しさを基準にすると、相手を導こうとする意識が出てくる。
でも、“楽しさ”を軸にすれば、一緒に笑える。
そこに上下も、評価もいらない。


いつでも、なすびであるということ

僕は、支援しているときも、日常を過ごしているときも、
自分の中で何かを切り替えているわけじゃない。
どんな場面でも、僕はただの“なすび”だ。

肩書きや役割を持つことはあるけれど、
それは誰かに説明しやすくするための名札みたいなもの。
僕にとって本質は、そこじゃない。

支援をしている時間と、生活している時間のあいだに境界はない。
同じように笑って、同じように迷って、同じように心が動く。
その全部が僕の“在り方”であり、支援という言葉を超えたところで息づいている。

不登校の子に何ができるか。
その問いの先には、いつも「どう在るか」という答えがある。
支援は行為じゃなく、存在の延長線上にある。
そしてその存在が誰かの心を少しでもあたためるなら、
それだけで十分だと思っている。

僕はこれからも、特別なことはしない。
ただ、子どもたちと一緒に生きる。
それが僕にとっての支援であり、
なすびとしての生き方なんだと思う。


子どもたちが自分らしく生きる力を育むために、日々活動しています。
なすびの想いに共感していただけたら、OFUSEでの応援が力になります。
👉 OFUSEはこちら

また、僕は訪問型の不登校支援も行っています。
「相談してみたい」「話を聞いてみたい」と思われた方は、こちらからご連絡ください。
👉 ご相談はこちら


完全訪問型フリースクール”なすび”をもっと見る

購読すると最新の投稿がメールで送信されます。

コメント

  1. さもん より:

    「支援」ねー。
    コトバのまとう雰囲気、匂い、あるよね。
    ただ、伝えるのにわかりやすい名前も必要なわけで。
    ずっと悩むのかなー。

タイトルとURLをコピーしました