子どもとの関わり方や、信頼関係の築き方について書かれたものを読んでいると、時々思うことがある。
子どもの動きは、もう少しシンプルに見てもいい場面があるのかもしれない、ということだ。
もちろん、理論そのものを否定したいわけではない。信頼関係が大事だという話にも、僕は納得している。けれど、説明が増えていくほど、目の前の子どもの動きが見えにくくなることもある気がしている。
僕は不登校の子どもたちと関わる中でも、自然学校で子どもたちと過ごす中でも、そう感じることがある。
自然学校の始まりに話していたこと
これは、僕が自然学校で初めてリーダー長をやったときの話だ。
その頃の僕は、正直かなり緊張していた。全体を見る立場になるのも初めてだったし、ちゃんとできているのか不安もあった。
自然学校の始まり、入所式のような最初の場面で、僕は子どもたちに時間の話をした。
静かな空気を早くつくれたら、その分みんなが楽しめる時間が増えること。
初日に一度だけ、十秒ほど黙ってみて、「今の空気を少し覚えてみてほしい」と伝えたこともあった。
何かを厳しく守らせたかったわけではない。どうせ同じ時間を過ごすなら、みんなが気持ちよく楽しめる流れを一緒につくれたらいい。そのくらいの気持ちだったと思う。
食堂に入ったときの静けさ
その数日後、ご飯の前に食堂へ行くと、子どもたちがすでに集まっていた。僕が時間に遅れたわけではなく、単純に子どもたちのほうが早かった。
そして、食堂に入ったとき、そこには少しいつもと違う静けさがあった。
ただ静かなだけではなかった。みんな真剣な顔をしているのに、口元だけ少しにやっとしている。何かを見せようとしているような、何かを待っているような、そんな空気だった。
僕はそのとき、まずその雰囲気に圧倒された。
それで思わず、
「なすびが言ったことではあるけど、これはちょっと緊張するな笑」
と笑いながらこぼした。
するとその瞬間、子どもたちから、ふふっと嬉しそうな笑いが広がった。爆笑ではなかった。うまくいったことをみんなで確かめるような、やわらかい笑いだった。
あとで知った子どもたちの気持ち
その場では、僕はただ感心していた。どうしてあの空気が生まれたのかまでは見えていなかった。
でも、そのあとみんなとご飯を食べているとき、一緒に食べていた班の子が教えてくれた。あれは、僕を驚かせようとしてみんなで決めたことだったらしい。
そのときは、そういうことだったのか、と思った。確認というより、新しい発見に近かった。
当時の僕は、初めてリーダー長をしていた時期で、自分のことで精一杯なところもあった。だから、その瞬間の子どもたちの内側まで細かく受け取れていたわけではない。
けれど今になって振り返ると、あのとき子どもたちが見ていたのは、『自分たちが静かにできているかどうか』よりも、『僕がどんな反応をするか』、そこだったのかもしれないと思う。
「どんな顔をするかな?」「どんな話をするかな?」
そんなふうに、僕の反応そのものを楽しみにしていたのではないか。今はそんなふうに受け取っている。
信頼より前にある、もっと素朴な動き
こういう出来事を見たとき、一般には「信頼関係があるから子どもは動く」と説明されることがあると思う。たしかに、それもひとつの見方なのだと思う。
でも、僕はもっと単純でいいのではないか、と感じている。
もっと手前に、もっと素朴な動きがあるように思えるからだ。
大人でも、好きな人がいたら、
その人に喜んでほしいと思うことがある。
少し驚かせたいと思うこともある。
その人の反応を見たくて動くこともある。
それは特別なことではなく、人として自然なことなのではないかと思う。
子どもも、そこはあまり変わらないのではないか。むしろ子どものほうが、その動きがもっとまっすぐに出やすいのではないか。
好きだから動く。
反応が見たいからやってみる。
喜んでほしいから頑張る。
そういう見え方でも、十分に受け取れる場面はある気がしている。
もちろん、僕は何もせずに見ているだけでいいと思っているわけではない。伝えることは伝えるし、いいなと思ったことはちゃんとフィードバックする。
それでもなお、子どもが動く理由を、毎回難しい言葉で包まなくてもいい場面があるのではないか。僕にはそう感じられる。
子どもを対等に見るということ
僕が子どもと関わるときに大事にしているのは、子どもを対等に見ることだ。
子どもだから見下していいとは思わない。子どもだから管理しないといけないとも思わない。子どもだから教え込まないといけないとも、あまり思っていない。
その子が何を見ているのか。今どこに心が動いているのか。そこを素直に見たいと思っている。
本気で一緒に悩む。
本気で一緒に考える。
本気で一緒に遊ぶ。
僕にとっては、その積み重ねの中で関係ができていく感覚がある。だからこそ、子どもの行動を必要以上に難しく見なくて済むことがあるのかもしれない。
目の前の子どものかわいさを見たい
理論を持つことが悪いわけではない。関わりを言葉にしていくことにも意味はあると思う。
ただ、難しく説明することに気を取られすぎると、目の前にいる子どものかわいさを見落としてしまうことがある。
あのとき食堂にあったのも、立派な理論より先に、僕を驚かせようとして、真剣な顔をしながら口元だけ少しにやつかせていた子どもたちのまっすぐさだった。
僕は、あの純粋なかわいさを見落としたくない。
不登校の子どもと関わるときも、日々出会う子どもたちと関わるときも、まずは目の前の子どものかわいいところに、純粋に目を向けてみてほしい。
そこから見えてくるものは、意外と多いように思う。
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