「寄り添い=全部肯定?」という違和感

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「寄り添いって、なんか違う意味で使われていないか」
ここ数年、そんな感覚がずっと頭のどこかに残っている。

不登校の子どもたちと関わっていると、「寄り添うことが大事ですよね」という言葉をよく聞く。SNSでも、「寄り添う支援」「寄り添う子育て」というフレーズはあふれている。

ただ、その中身をよく聞いていくと、
「寄り添い=全部肯定」
みたいなイメージで語られている場面が少なくない。「本人が嫌がるなら、何も言わない」「本人が望むなら、とにかく合わせる」。そんなニュアンスで使われる寄り添いに、僕はどうしても引っかかりを覚えてきた。

僕が信じている寄り添いは、少し違う。一緒に悩むし、一緒に迷うし、気持ちを受け止めるのは前提にある。そのうえで、「それは違うと思う」と感じたときには、ちゃんとそう伝えたい。本人が一歩踏み出そうとしているなら、「やめておこうか」ではなく、「やってみようか」と背中をそっと押したい。

この感覚が自分だけの思い込みなのか確かめたくて、「寄り添い」という言葉が看護や教育、ビジネスの現場ではどう定義されているのかを、自分なりに調べてみた。すると、専門領域での「寄り添い」は、やはり単なる「全部肯定」ではなかった。

相手の話をただ聞くだけではなく、変化や自立に向かうプロセスを一緒に支えること。必要なら、あえて負荷のかかる選択を一緒に引き受けること。そうした「能動的な関わり」として説明されていた。

この定義を読んだとき、僕が感じていた寄り添いと重なっている部分が多いと分かって、少しほっとした。一方で、「寄り添い」という言葉が、現場と世間でかなり違うイメージで使われていることも、はっきり見えてきた。

「無理しなくていいよ」が、やる気の芽を止めてしまうとき

不登校の子どもと関わっているときに、よく出会う場面がある。長く休んでいて、家で過ごす時間が増えている子。ある日ふと、「これ、やってみようかな」と小さくつぶやく瞬間がある。

それは、学校の行事かもしれないし、習いごとかもしれない。もっと小さなことで、「近所のスーパーまで一緒に行ってみようかな」とか、「このゲームのオンラインに挑戦してみようかな」といった一歩のことも多い。

その瞬間、僕は心の中で「おっ」と思う。本人の中から、少しだけ前に動こうとするエネルギーが浮かび上がった瞬間だからだ。不安も抱えながら、それでも「やってみようかな」と口にしている。そこには、その子なりの覚悟が混ざっていることが多い。

こういう場面で、大人からよく出てくる言葉がある。
「無理しなくていいよ」
という一言だ。

もちろん、この言葉の裏側には、優しさがある。またしんどくなったらどうしよう、と心配している。がんばりすぎてつぶれてしまった過去があれば、「ここで無理させるくらいなら、休ませてあげたい」と思うのも自然だ。

ただ、僕はその一言を聞くたびに、胸のどこかがきゅっとなる。「ああ、今、この子の『やる気の芽』が止まりかけているな」と感じるからだ。

僕だったら、その場で口をついて出てくるのは、だいたいこんな言葉になる。「そうなんだ。じゃあ、ちょっとだけやってみようか」

その子が「やってみようかな」と言った、その方向に、ほんの少しだけ風を送る。背中をぐっと押すというより、「一緒に半歩だけ前に出てみる?」くらいの温度だ。やってみてしんどかったら、また一緒に戻ってくればいい。その選択も含めて、一緒にやってみる。

僕が気になっているのは、「無理しなくていいよ」という言葉が、その子の中に芽生えた好奇心や、「やってもいいかもしれない」という感覚ごと、そっと押し戻してしまう場面があることだ。本当は、その一歩を踏み出すことで育っていくはずだった非認知的な力が、そこで一度流れてしまう。

「やってみたい」と言えた自分を認めるチャンス。自分で決めて動いたことを、大人に見てもらえるチャンス。うまくいっても、いかなくても、「やってみた自分」がちゃんと存在できるチャンス。

そういうものが、まとめて目の前から消えていく。僕が「もったいない」と感じるのは、まさにそこだ。

先回りしないケアと、回復期リハビリで学んだこと

この「もったいなさ」の感覚は、看護師として働いていた頃の経験とも強くつながっている。僕は回復期リハビリテーション病棟で働いていたことがある。そこでは、「今この場でどこまで手を貸すか」が、その人の退院後の生活に直結していた。

病院にいるあいだは、僕たちが介助することもできる。けれど退院したあとは、その人は自分の生活を自分で送っていく。目の前の一日だけを見るのではなく、その人の人生の先を考えながら関わる必要があった。

たとえば朝。時間はかかっても、自分でベッドから起き上がって、車いすに座って、食堂まで出てくる人がいる。最初はふらつくこともあるし、見ている側はハラハラする。急いでいるときには、「今日は車いすを押していきましょうか」と声をかけたくなることもある。

でも、それを繰り返してしまうとどうなるか。朝起きることも、車いすに乗り移ることも、「してもらうのが当たり前」になっていく。一日が病室の中だけで完結するようになり、少しずつ筋力も落ちていく。家に帰ったとき、「自分で起き上がれない」「トイレに行けない」という状態になってしまうこともある。

看護やリハビリの世界では、本人ができる動作を先回りしてやってしまうことを
「奪うケア」
と呼ぶことがある。それは、その人の未来から「自分でできたはずの力」を少しずつ削ってしまう関わりだからだ。

もちろん、すべてを本人任せにすればいいわけではない。本当に危険な場面では、迷わず支える必要がある。ただ、「危ないかもしれない」「見ていると不安だから」という理由だけで、できることまで奪ってしまうと、その人の生活はどんどん小さくなっていく。

この感覚は、不登校の子どもたちと関わるときにも、そのまま重なって見える。子どもが自分で「やってみようかな」と動き出そうとしているときに、大人が先回りして道をならしすぎる。子どもが自分でやれることまで、「大変だから」「しんどくなったらかわいそうだから」と引き受けてしまう。

それは一見とても優しい。でも、その優しさが続いていくと、「自分でできたはずの経験」や「任せてもらえたという実感」が、少しずつ減っていく。ここでもやっぱり、僕の中に残るのは「もったいない」という感覚だ。

不登校の子どもが腫れ物扱いされるとき

不登校の子どもたちと関わっていると、ときどき
「腫れ物扱い」
されていると感じることがある。

「刺激を与えたら、さらに悪化してしまうかもしれない」「何か言って、傷つけてしまったらどうしよう」「機嫌を損ねたら、もう動けなくなってしまうんじゃないか」。そういった不安から、周りの大人が極端に慎重になる。

その慎重さ自体には、当然理由がある。過去のつらい経験を見てきているからこそ、同じことを繰り返したくない。それは、子どもを大切に思っているからこその反応でもある。

ただ、その結果として「何もしないこと」や「とにかく逆らわないこと」が、寄り添いのように扱われてしまうことがある。子どもが一歩踏み出そうとしたときに、「無理しなくていいよ」とブレーキをかける。自分でできそうなことまで、「大変だから」と大人が代わりにやってしまう。

僕自身も、子どもの頃に不登校を経験している。当時は、今ほど「不登校」という言葉も一般的ではなかった。周りの大人たちもどう接していいか分からず、結果として腫れ物のように扱われることが多かった。

その空気のなかで、僕はだんだん「自分なんて何もできない子なんだ」と思い込んでいった。できないことが多かったからではなく、「できるかもしれない自分」を試す機会が少なかったことも影響しているかもしれない。

だから今、不登校の子どもたちを腫れ物扱いしたくないと思っている。子どもを責めたいわけでも、大人を責めたいわけでもない。ただ、「あのとき本当は、もっと違う関わり方ができたはずだ」と、自分自身の過去を振り返って感じるからだ。

不登校の子どもたちに必要なのは、「何も触れないこと」でも、「全部を肯定して従うこと」でもない。その子が自分の力を思い出していくプロセスに、一緒に立ち会うことだと思う。

大人が思っている以上に、子どもはかっこいい

ここまで書いてきたことは、「いまの寄り添いは間違っている」と責めたいわけではない。むしろ、その裏側にある「なんとかして守りたい」「これ以上傷つけたくない」という願いには、僕も共感している。

ただ、その願いの方向が少しだけずれてしまうことで、子どもの「やってみたい」という芽や、「自分を信じてみよう」という感覚が、静かに削られてしまう場面がある。そこにどうしても「もったいない」と感じてしまう。

僕が伝えたいのは、シンプルなことだ。
大人が思っている以上に、子どもはかっこいい。

不登校だからといって、人生から降りたわけではない。うまくいかなかった経験や、つらい出来事を抱えながらも、それでも「どう生きていこうか」と考えている。誰にも言えない気持ちを、それでもどこかで誰かに受け止めてほしいと願っている。本当は、自分で「やってみようかな」と言える瞬間を、ちゃんと持っている。

だからこそ、寄り添いという言葉を、「守るためだけのもの」に閉じ込めたくない。その子の中にある力を信じること。一歩踏み出そうとした瞬間に、「無理しなくていいよ」と引き戻すのではなく、「一緒にやってみようか」と隣で歩くこと。できそうなことまで先回りして奪うのではなく、「任せてみる」という選択を増やしていくこと。

身近な子どもが「やってみようかな」とつぶやいたとき。その一言に、どんな言葉を返したいか。寄り添いという言葉を思い出すときに、少しだけそのことを考えてもらえたらうれしい。


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