「今目の前にいる子どもたちが、明日いないことも覚悟しなさい」

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これは、僕が小児科で働き始めた一年目に、先輩看護師から言われた言葉だ。
その先輩もまた、別の先輩から同じ言葉を受け取ったのだと聞いた。

当時の僕には、その言葉を引き受けるだけの覚悟がなかった。
自分には抱えきれないと思って、小児科を辞めた。
それでも、その言葉だけはずっと心に残り続けている。

最近、久しぶりにその言葉を思い出した。
きっかけは、サポートルーム(学校内のフリースクール)で働く人の募集要項にあった「なるべく教室に戻すよう促してくれる人」という一文だった。

僕が引っかかったのは、「教室に戻す」という考え方そのものではない。
そうではなく、その前にあるはずの、目の前の子どもが今日ここに来ているという事実の重さが、言葉の中から抜け落ちているように感じたことだった。

僕は教育を責めたいわけじゃない。
ただ、目の前の子どもに向き合うとき、最初に置く言葉が「戻す」なのか、「今日ここに来ている」なのかで、関わり方は大きく変わると思っている。

小児科で受け取った感覚

小児科にいた頃、子どもが今日そこにいることは、決して当たり前ではなかった。
元気に見える日が続いていても、明日のことは誰にも言い切れない。
先輩がくれた言葉は、その現実をただそのまま渡してくるものだった。

僕はその重さに耐えきれず、現場を離れた。
でも、そこで受け取った感覚は消えなかった。
今でも、目の前の子どもを簡単に当たり前にそこにいる存在として見ることができない。

だから僕にとっては、子どもに会えることや話せること自体がうれしい。
笑顔が見られることも、軽くない。
何かができたかどうかより前に、「今日、会えた」という事実のほうがずっと大きい。

支援の現場では、何をしたか、どんな変化があったかが先に語られやすい。
でも僕の中では、そのもっと手前にあるものの重さのほうが大きい。
会えたこと。
同じ場所にいられたこと。
少しでも言葉を交わせたこと。
そういう一つひとつを、軽く扱いたくないと思っている。

募集要項の言葉に引っかかった理由

僕は学校の方針を一方的に否定したいわけではない。
教室に戻ってほしいと願う気持ちがあることもわかる。
ただ、「なるべく教室に戻すよう促してくれる人」という言葉には、僕にはどうしても順番の違いがあるように思えた。

不登校の子どもに関わる場で、最初に置かれる言葉が「戻す」になっている。
そこに、僕は引っかかった。
その子がどんな気持ちで朝を迎え、どれだけ力を振り絞って学校まで来ているのか。
その想像が、少し置き去りにされているように感じたからだ。

違和感があったのは、単に支援方針の違いではない。
目の前の子が“今ここにいる”ことを、どこか当たり前の前提として扱っているように見えたことが大きい。
僕の中に小児科で受けた感覚が残っているからこそ、その前提の軽さが余計に目についたのだと思う。

もし最初の前提が「子どもは明日も同じようにここにいるはず」になっているなら、そこから先に出てくる言葉は、自然と大人の予定や都合に引っぱられていく。
けれど僕には、その前提をそんなに簡単には置けない。
だから、あの一文が引っかかった。

「じゃあ、次は…」

サポートルームに来る子どもは、そこに来るだけでかなりの力を使っていることがある。
教室に入るのは難しい。
それでも学校まで来て、サポートルームまでたどり着く。
その時点で、もう十分に頑張っている子がいる。

大人には、その朝のしんどさをもう少し想像してほしいと思う。
外から見れば「教室には行けていない」になるのかもしれない。
でも本人の中では、そこまで来るだけで限界に近いことがある。

家を出るまで何度も迷ったかもしれない。
学校の門の前で立ち止まったかもしれない。
教室には入れなくても、サポートルームなら何とか来られたのかもしれない。
その過程を全部飛ばして、「じゃあ次は教室へ」と言ってしまえば、今出せた力まで足りないものとして扱ってしまうことになる。

僕には、その状態の子に対して、さらに次を求める発想があまりない。
たとえば、やっとの思いで提出物を仕上げて渡したとき、受け取られるより先に「じゃあ次はこれを頑張ろう」と言われたら、苦しくなると思う。
「じゃあ次は…」はそれに近い重さを持っていると感じている。

まず必要なのは、安心の土台

教育に関わる人には、アタッチメント理論のように、「安心の土台があってはじめて人は動ける」という視点を、もう少し大事にしてほしいと思う。
理論の名前を知っていてほしいわけではない。
ただ、人は安心できる場所があってこそ、自分の力で動き出せる。
その順番だけは外してほしくない。

安心の土台がないまま動かされると、子どもは動いたように見えても、内側では無理が積み重なっていくことがある。
逆に、安心できる場所があれば、沈黙も本音もそのまま出しやすくなる。
そしてその中でようやく、その子自身の動きが育っていくのだと思う。

サポートルームは、その土台になれる場所だと思う。
素のままでいられて、本音を出せて、無理に何者かにならなくてもいい場所。
そこがあるからこそ、次の一歩は大人に押されてではなく、本人の内側から出てくる。

本人が「教室に戻りたい」と言うなら、僕は引き止めない。
そのときは、ただ「行ってらっしゃい」と送り出せばいいと思っている。
でもそれは、大人が先に促して起こすものではなく、安心できる場所の中で、その子の側から生まれてくるものだと思う。

最初の「おはよう」

サポートルームに子どもが来たとき、僕は特別に褒めたりしない。
「よく来たね」と評価することもしない。
ただ、「おはよう」と言って、普通に会う。

それは、その頑張りを見ていないからではない。
むしろ逆で、そこに来るまでに使った力を軽く扱いたくないから。
頑張りを言葉にして評価するより、その子がその場にいる存在として受け取る。
僕には、それで十分だと思える。

子どもを支援の対象として迎えるというより、同じ場で会う仲間として迎える感覚に近い。
友達どうしの「おはよう」に近い空気があるからこそ、子どもも余計な説明をしなくて済むのだと思う。

目の前にその子が生きている

医療でも教育でも、目の前の子どもに向き合うとき、僕はまず、その子が今日ここにいることから考えたい。
何を促すかより先に、今日ここにいることを軽く扱わないこと。
そこが抜けると、関わりはすぐに大人の都合に傾いていく。

不登校の子どもに関わる場でも、まず見てほしいのはそこだ。
教室に戻れるかどうかより前に、今日ここにいて、会えて、話せて、笑えるかもしれないことのほうが、僕にはずっと大きい。

その子が今ここにいる。
そのことを、当たり前として通り過ぎないでいたい。
何かを足す前に。
何かを変えようとする前に。
まず、そこから始めたいと思う。

今目の前にその子が生きている。
それが僕にとっての幸せだ。

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